かし、よし譬《たと》え、明かに、事実は妻を死の中へ引《ひ》き摺《ず》り込もうとしているとしても、果して、事実は常に事実であろうか。
 ――嘘《うそ》だ。と彼は思った。
 彼は、総《すべ》ての自分の感覚を錯覚だと考えた。一切の現象を仮象《かしょう》だと考えた。
 ――何故にわれわれは、不幸を不幸と感じなければならないのであろう。
 ――何故にわれわれは、葬礼を婚礼と感じてはいけないのであろう。
 彼はあまりに苦しみ過ぎた。彼はあまりに悪運を引き過ぎた。彼はあまりに悲しみ過ぎた、が故に、彼はそのもろもろの苦しみと悲しみとを最早|偽《いつわ》りの事実としてみなくてはならなかった。
 ――間もなく、妻は健康になるだろう。
 ――間もなく、二人は幸福になるだろう。
 彼はこのときから、突如として新しい意志を創り出した。彼はその一個の意志で、総《あら》ゆる心の暗さを明るさに感覚しようと努力し始めた。もう彼にとって、長い間の虚無は、一睡の夢のように吹き飛んだ。
 彼は深い呼吸をすると、快活に妻のベッドの傍へ寄っていった。
「おい、お前は死ぬことを考えているんだろう。」
 妻は彼を見て頷《うなず》いた
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