だけにすぎなかった。
こうして、彼の妻はその死期の前を、花園の人々に愛されただけ、眼下の漁場に苦しめられた。しかし、花園は既にその山上の優れた位地を占めた勝利のために、何事にも黙っていなければならなかった。彼の妻は日々一層激しく咳き続けた。
七
こういう或る日、彼はこっそり副院長に別室へ呼びつけられた。
「お気の毒ですが、多分、あなたの奥様は、」
「分りました。」と彼はいった。
「この月いっぱいだろうと思いますが……」
「ええ。」
「私たちは出来るだけのことをやったのですが。……何分……」
「どうも、いろいろ御迷惑をおかけしまして、」
「いや……それから、もし御親戚の方々をお呼びなさいますなら、一時にどっと来られませんように。」
「承知しました。」
「長い間でお疲れでございましょう。」
「いや。」
彼はいつの間にか廊下の真中まで来てひとり立っていた。忘れていた悲しみが、再び強烈な匂《におい》のように襲って来た。
彼は妻の病室の方へ歩き出した。
――しかし、これは、事実であろうか。
彼はまた立ち停った。セロのガボットが華やかに日光室から聞えて来た。
――し
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