ためここの白い看護婦たちは、患者の脈を験《しら》べる巧妙な手つきと同様に、微笑と秋波《しゅうは》を名優のように整頓しなければならなかった。しかし、彼女たちといえども一対の大きな乳房をもっていた。病舎の燈火が一斉に消えて、彼女たちの就寝の時間が来ると、彼女らはその厳格な白い衣を脱ぎ捨て、化粧をすませ、腰に色づいた帯を巻きつけ、いつの間にかしなやかな寝巻姿の娘になった。だが娘になった彼女らは、皆ことごとく疲れと眠さのため物憂《ものう》げに黙っていた。それは恋に破れた娘らがどことなく人目を憚《はばか》るあの静かな悩ましさをたたえているかのように。或るものはその日の祈りをするために跪《ひざまず》き、或るものは手紙を書き、或るものは物思いに沈み込み、また、ときとしては或るものは、盛装をこらして火の消えた廊下の真中にぼんやりと立っていた。恐らく彼女らにはその最も好む美しき衣物を着る時間が、眠るとき以外にはないのであろう。
或る夜、彼女らの一人は、夜|更《ふ》けてから愛する男の病室へ忍び込んで発見された。その翌日、彼女は病院から解雇された。出て行くとき彼女は長い廊下を見送る看護婦たちにとりまかれながら、いささかの羞《は》ずかしさのために顔を染めてはいたものの、傲然《ごうぜん》とした足つきで出ていった、それは丁度、長い酷使と粗食との生活に対して反抗した模範を示すかのように。その出て行くときの彼女の礼節を無視した様子には、確《たしか》に、長らく彼女を虐《いじ》めた病人と病院とに復讎《ふくしゅう》したかのような快感が、悠々《ゆうゆう》と彼女の肩に現われていた。
六
梅雨期が近づき出すと、ここの花園の心配はこの院内のことばかりではなくなって来た。麓《ふもと》の海村には、その村全体の生活を支えている大きな漁場がひかえていた。上に肺病院を頂《いただ》いた漁場の魚の売れ行きは拡大するより、縮小するのが、より確実な運命にちがいない。麓の活躍した心臓を圧迫するか、頂の死《し》に逝《ゆ》く肺臓を黙殺するか、この二つの背反に波打って村は二派に分れていた。既に決定せられたがように、譬《たと》えこの頂きに療院が許されたとしても、それは同時に尽《ことごと》くの麓の心臓が恐怖を忘れた故ではなかった。
間もなく、これらの腐敗した肺臓を恐れる心臓は、頂の花園を苦しめ出した。彼らは花園に接近した地点を撰ぶと、その腐敗した肺臓のために売れ残って腐り出しただけの魚の山を、肥料として積み上げた。忽《たちま》ち蠅《はえ》は群生して花壇や病舎の中を飛び廻った。病舎では、一疋の蠅は一挺《いっちょう》のピストルに等しく恐怖すべき敵であった。院内の窓という窓には尽く金網が張られ出した。金槌《かなづち》の音は三日間患者たちの安静を妨害した。一日の混乱は半カ月の静養を破壊する。患者たちの体温表は狂い出した。
しかし、この肺臓と心臓との戦いはまだ続いた。既に金網をもって防戦されたことを知った心臓は、風上から麦藁《むぎわら》を燻《くす》べて肺臓めがけて吹き流した。煙は道徳に従うよりも、風に従う。花壇の花は終日|濛々《もうもう》として曇って来た。煙は花壇の上から蠅を追い散らした勢力よりも、更に数倍の力をもって、直接腐った肺臓を攻撃した。患者たちは咳《しわぶ》き始めた。彼らの一回の咳は、一日の静養を掠奪する。病舎は硝子戸《ガラスど》で金網の外から密閉された。部屋には炭酸|瓦斯《ガス》が溜り出した。再び体温表が乱れて来た。患者の食慾が減り始めた。人々はただぼんやりとして硝子戸の中から空を見上げているだけにすぎなかった。
こうして、彼の妻はその死期の前を、花園の人々に愛されただけ、眼下の漁場に苦しめられた。しかし、花園は既にその山上の優れた位地を占めた勝利のために、何事にも黙っていなければならなかった。彼の妻は日々一層激しく咳き続けた。
七
こういう或る日、彼はこっそり副院長に別室へ呼びつけられた。
「お気の毒ですが、多分、あなたの奥様は、」
「分りました。」と彼はいった。
「この月いっぱいだろうと思いますが……」
「ええ。」
「私たちは出来るだけのことをやったのですが。……何分……」
「どうも、いろいろ御迷惑をおかけしまして、」
「いや……それから、もし御親戚の方々をお呼びなさいますなら、一時にどっと来られませんように。」
「承知しました。」
「長い間でお疲れでございましょう。」
「いや。」
彼はいつの間にか廊下の真中まで来てひとり立っていた。忘れていた悲しみが、再び強烈な匂《におい》のように襲って来た。
彼は妻の病室の方へ歩き出した。
――しかし、これは、事実であろうか。
彼はまた立ち停った。セロのガボットが華やかに日光室から聞えて来た。
――し
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