すかな一条の歎声が洩れるとは。彼は彼女のその歎声の秘められたような美しさを聴くために、戸外から手に入る花という花を部屋の中へ集め出した。
薔薇は朝毎に水に濡れたまま揺れて来た。紫陽花《あじさい》と矢車草《やぐるまそう》と野茨《のいばら》と芍薬《しゃくやく》と菊と、カンナは絶えず三方の壁の上で咲いていた。それは華《はな》やかな花屋のような部屋であった。彼は夜ごとに燭台に火を付けると、もしかしたらこっそりこの青ざめた花屋の中へ、死の客人が訪れていはしまいかと妻の寝顔を覗き込んだ。すると、或《あ》る夜不意に妻は眼を開けて彼にいった。
「あなた、私が死んだら、幸福になるわね。」
彼は黙って妻の顔を眺めていた。そして、彼は自分の寝床へ帰って来ると憂鬱《ゆううつ》に蝋燭の火を吹き消した。
四
彼は自分の疲れを慰めるために、彼の眼に触れる空間の存在物を尽《ことごと》く美しく見ようと努力し始めた。それは彼の感情のなくなった虚無の空間へ打ち建てらるべきただ一つの生活として、彼に残されていたものだった。
彼は彼の寝床を好んだ。寝床は妻の寝室と同じであるとしても、軽症者の静臥《せいが》すべきベランダにあった。ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒《さ》める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々《こうこう》として彼の視線を放さなかった。その海の断面のような月夜の下で、花園の花々は絶えず群生した蛾《が》のようにほの白い円陣を造っていた。そうして月は、その花々の先端の縮れた羊のような皺《しわ》を眺めながら、蒼然《そうぜん》として海の方へ渡っていった。
そういう夜には、彼はベランダからぬけ出し夜の園丁《えんてい》のように花の中を歩き廻った。湿った芝生に抱かれた池の中で、一本の噴水が月光を散らしながら周囲の石と花とに戯《たわむ》れていた。それは穏かに庭で育った高価な家畜のような淑《しと》やかさをもっていた。また遠く入江を包んだ二本の岬《みさき》は花園を抱いた黒い腕のように曲っていた。そうして、水平線は遙か一髪の光った毛のように月に向って膨《ふく》らみながら花壇の上で浮いていた。
こういうとき、彼は絶えず火を消して眠っている病舎の方を振り返るのが癖《くせ》である。すると彼の頭の中には、無数の肺臓が、花の中で腐りかかった黒い菌のように転がっている所が浮んで来る。恐らくその無数の腐りかかった肺臓は、低い街々の陽《ひ》のあたらぬ屋根裏や塵埃溜《ごみため》や、それともまたは、歯車の噛《か》み合《あ》う機械や飲食店の積み重なった器物の中へ、胞子を無数に撒《ま》きながら、この丘の花園の中へ寄り集って来たものに相違ない。しかし、これらの憐れにも死に逝《ゆ》く肺臓の穴を防ぎとめ、再び生き生きと活動させて巷《ちまた》の中へ送り出すここの花園の院長は、もとは、彼の助けているその無数の腐りかかった肺臓のように、死を宣告された腐った肺臓を持っていた。一の傷ついた肺臓が、自身の回復した喜びとして、その回復期の続く限り、無数の傷ついた肺臓を助けて行く。これが、この花園の中で呼吸している肺臓の特種な運動の体系であった。
五
ここの花園の中では、新鮮な空気と日光と愛と豊富な食物と安眠とが最も必要とされていた。ここでは夜と雲とが現われない限り、病舎に影を投げかけるものは屋根だけだった。食物は海と山との調味豊かな品々が時に従って華やかな色彩で食慾を増進させた。空気は晴れ渡った空と海と山との三色の緑の色素の中から湧《わ》き上《あが》った。物音とてはしんしんと耳の痛む静けさと、時には娯楽室からかすかに上るミヌエットと、患者の咳《せき》と、花壇の中で花瓣の上に降りかかる忍びやかな噴水の音ぐらいにすぎなかった。そうして、愛は? 愛は都会の優れた医院から抜擢《ばってき》された看護婦たちの清浄な白衣の中に、五月の徴風のように流れていた。
しかし、愛はいつのときでも曲者《くせもの》である。この花園の中でただ無為に空と海と花とを眺めながら、傍近く寄るものが、もしも五月の微風のように爽《さわや》かであったなら、そこに柔かな愛慾の実のなることは明かな物理である。しかし、ここの花園では愛恋は毒薬であった。もしも恋慕が花に交って花開くなら、やがてそのものは花のように散るであろう。何《な》ぜなら、この丘の空と花との明るさは、巷の恋に代った安らかさを病人に与えるために他ならない。もしも彼らの間に恋の花が咲いたなら、間もなく彼らを取り巻く花と空との明るさはその綿々《めんめん》とした異曲のために曇るであろう。だが、この空と花との美しき情趣の中で、華やかな女のさざめきが微笑のように迫るなら、愛慾に落ちないものは石であった。この
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