かし、よし譬《たと》え、明かに、事実は妻を死の中へ引《ひ》き摺《ず》り込もうとしているとしても、果して、事実は常に事実であろうか。
――嘘《うそ》だ。と彼は思った。
彼は、総《すべ》ての自分の感覚を錯覚だと考えた。一切の現象を仮象《かしょう》だと考えた。
――何故にわれわれは、不幸を不幸と感じなければならないのであろう。
――何故にわれわれは、葬礼を婚礼と感じてはいけないのであろう。
彼はあまりに苦しみ過ぎた。彼はあまりに悪運を引き過ぎた。彼はあまりに悲しみ過ぎた、が故に、彼はそのもろもろの苦しみと悲しみとを最早|偽《いつわ》りの事実としてみなくてはならなかった。
――間もなく、妻は健康になるだろう。
――間もなく、二人は幸福になるだろう。
彼はこのときから、突如として新しい意志を創り出した。彼はその一個の意志で、総《あら》ゆる心の暗さを明るさに感覚しようと努力し始めた。もう彼にとって、長い間の虚無は、一睡の夢のように吹き飛んだ。
彼は深い呼吸をすると、快活に妻のベッドの傍へ寄っていった。
「おい、お前は死ぬことを考えているんだろう。」
妻は彼を見て頷《うなず》いた。
「だが、人間は死ぬものじゃないんだ。死んだって、死ぬなんてことは、そんなことは何んでもない。分ったね。」――無論、何をいっているのか彼にも分らなかった。
妻は冷淡な眼で彼を見詰めたまま黙っていた。
「お前は俺《おれ》よりも、そんなことは良く知っているだろう。死ぬなんていうことは、下らない、何んでもない、馬鹿馬鹿しいことなんだ。」
「あたし、もうこれ以上苦しむのは、いや。」と妻はいった。
「そりゃ、そうだ。苦しむなんて、馬鹿な話だ。しかし、生きているからって、お前は俺に気がねする必要は、少しもないんだ。」
「あたし、あなたより、早く死ぬから、嬉しいの。」と彼女はいった。
彼は笑い出した。
「お前も、うまいことを考えたね。」
「あたしより、あなたの方が、可哀想《かわいそう》だわ。」
「そりゃ、定《き》まってる。俺の方が馬鹿を見たさ。だいたい、人間が生きているなんていうことからして、下らないよ。こんなにぶらぶらして、生きていたって、始まらないじゃないか。お前も、もう死ぬがいい、うむ?」
「うむ、」と妻は頷いた。
「俺だって、もう直ぐ死ぬんさ。こんな所に、ぐずぐず生きてなんか、いたかない。お前も、うまいことをしたもんさ。」
妻は彼を見てかすかに笑い出した。
「あたし、ただ、もうちょっと、この苦しさが少なければ、生きていてもいいんだけど。」
「馬鹿な。生きていたって、仕様《しよう》がないじゃないか、いったい、これから、何をしようっていうんだ。もう俺もお前もするだけのことは、すっかりしてしまったじゃないか。思い出してみるがいい。」
「そうだわね。」と妻は言った。
「そうさ、もう大きな顔をして、死んでもいいよ。」
妻は彼の顔から彼の心理の変化を見届けようとするように、黙って彼の顔を見詰めていた。
「お前は何だか淋しそうだ。お前のお母さんを、呼んでやろうか。」
「もういい、あなたが傍《そば》にいて下されば、あたし誰にも逢《あ》いたかない。」と妻はいった。
「そうか、じゃ、」と彼はいって直ぐ彼女の母に来るようにと手紙を書いた。
八
その翌日から妻の顔は急に水々しい水蜜《すいみつ》のような爽《さわや》かさを加えて来た。妻は絶えず、窓いっぱいに傾斜している山腹の百合《ゆり》の花を眺めていた。彼は部屋の壁々に彼女の母の代りに新しい花を差し添えた。シクラメンと百合の花。ヘリオトロオプと矢車草《やぐるまそう》。シネラリヤとヒアシンス。薔薇《ばら》とマーガレットと雛罌粟《ひなげし》と。
「お前の顔は、どうしてそう急に美しくなったのだろう。お前は十六の娘のようだ。お前はいっぱいのスープも飲まないくせに、まるで鶏《にわとり》の十五、六羽もやっつけたような顔をしている。不思議な奴だ。さては、俺の知らぬ間に、こっそりやったと見えるな。」
「あの百合の花を、この部屋から出して。」と妻はいった。
百合の匂いは他の花の匂いを殺してしまう。――
「そうだ、この花は、英雄だ。」
彼は百合を攫《つか》むと部屋の外へ持ち出した。が、さて捨てるとなると、その濡れたように生き生きとした花粉の精悍《せいかん》な色のために、捨て処がなくなった。彼は小猫を下げるように百合の花束をさげたまま、うろうろ廊下を廻って空虚の看護婦部屋を覗《のぞ》いてみた。壁に挾まれた柩《ひつぎ》のような部屋の中にはしどけた帯や野蛮なかもじ[#「かもじ」に傍点]が蒸された空気の中に転げていた。まもなくここで、疲れた身体を横たえるであろう看護婦たちに、彼は山野の清烈な幻想を振《ふ》り撒《ま》いてやる
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