ために、そっと百合の花束を匂い袋のように沈めておいて戻って来た。
九
山の上では、また或る日|拗《しつこ》く麦藁《むぎわら》を焚《た》き始めた。彼は暇をみて病室を出るとその火元の畠の方へいってみた。すると、青草の中で、鎌《かま》を研《と》いでいた若者が彼を仰いだ。
「その火は、いつまで焚くんです?」と彼は訊《き》いた。
「これだけだ。」と若者はいいながら火のついた麦藁を鎌で示した。
「その火は焚かなくちゃ、いけないものですか。」
若者は黙って一握りの青草に刃《は》をあてた。
「僕の家内は、この煙りのために、殺されるんです。焚かないですませるものなら、やめてくれ給え。」
彼は若者の答えを待たずに、裏山から漁場の方へ降りていった。扁平《へんぺい》な漁場では、銅色《あかがねいろ》の壮烈な太股《ふとまた》が、林のように並んでいた。彼らは折からの鰹《かつお》が着くと飛沫《ひまつ》を上げて海の中へ馳《か》け込《こ》んだ。子供たちは砂浜で、ぶるぶる慄《ふる》える海月《くらげ》を攫《つか》んで投げつけ合った。舟から樽が、太股が、鮪《まぐろ》と鯛《たい》と鰹が海の色に輝きながら溌溂《はつらつ》と上って来た。突如として漁場は、時ならぬ暁のように光り出した。毛の生えた太股は、魚の波の中を右往左往に屈折した。鯛は太股に跨《またが》られたまま薔薇色の女のように観念し、鮪は計画を貯えた砲弾のように、落ちつき払って並んでいた。時々突っ立った太股の林が揺らめくと、射し込んだ夕日が、魚の波頭で斬《き》りつけた刃のように鱗光《りんこう》を閃《ひら》めかした。
彼は魚の中から丘の上を仰いで見た。丘の花壇は、魚の波間に忽然《こつぜん》として浮き上った。薔薇と鮪と芍薬《しゃくやく》と、鯛とマーガレットの段階の上で、今しも日光室の多角な面が、夕日に輝きながら鋭い光鋩《こうぼう》を眼のように放っていた。
「しかし、この魚にとりまかれた肺病院は、この魚の波に攻め続けられている城である。この城の中で、最初に討死《うちじに》するのは、俺の家内だ。」と彼は思った。
事実彼にとって、眼前の魚は、煙で彼の妻の死を早めつつある無数の勇敢な敵であった。と同時に、彼女にとっては、魚は彼女の苦痛な時期をより縮めんとしている情《なさけ》ある医師でもあった。彼には、あの砲弾のような鮪の鈍重な羅列《られつ》が、急に無意味な意味を含めながら、黒々と沈黙しているように見えてならなかった。
十
この日から、彼は、彼の妻を苦しめているものは事実果してこの漁場の魚か花園の花々か、そのどちらであろうかと迷い出した。何故なら彼女が花園にある限り、彼女の苦しい日々は、恐らく魚の吐き出す煙があるよりも、長く続いて行くにちがいなかったからである。
その夜の回診のとき、彼の妻は自分の足を眺めながら医師に訊《たず》ねた。
「先生、私の足、こんなに膨《ふく》れて来て、どうしたんでございましょう。」
「いや、それは何んでもありません。御心配なさいますな。何んでもありませんから。」と医師は誤魔化《ごまか》した。
――水が足に廻り出したのだ。
――もう、駄目だ。と彼は思った。
医師が去ると、彼は電燈を消して燭台に火を点《つ》けた。
――さて、何の話をしたものであろう。
彼は妻の影が、ヘリオトロオプの花の上で、蝋燭《ろうそく》の光りのままに細かく揺れているのを眺めていた。すると、ふと、彼は初めて妻を見たときの、あの彼女のただ彼のみに赦《ゆる》されてあるかのような健《すこや》かな笑顔を思い出した。彼は涙がにじんで来た。彼はソッと妻の上にかがみ込むと、花の匂いの中で彼女の額《ひたい》に接吻した。
「お前は、俺があの汚い二階の紙屑《かみくず》の中に坐っている頃、毎夜こっそり来てくれたろう。」
妻は黙って頷《うなず》いた。
「俺はあの頃が一番面白かった。お前の明るいお下《さげ》の頭が、あの梯子《はしご》を登った暗い穴の所へ、ひょっこり花車《はなぐるま》のように現われるのさ。すると、俺は、すっかり憂鬱がなくなっちゃって、はしゃぎ廻ったもんだ。とにかく、あの頃は、俺も貧乏していたが、一番愉快だった。あれからは、俺もお前も、若い身空で苦労をした。しかし、まア、いいさ。どっちも、わがままのいい合いをして来たんだからね。それに俺だって、お前に一度もすまぬようなことをして来てないし、お前も俺にあやまるようなことはちっともなかったし、まア、俺たちは、お互に有難がらなくちゃならない夫婦なんだよ。何んだか、そろそろおかしな話になって来たが、とにかく、お前が病気をしたお蔭《かげ》で、俺ももう看護婦の免状位は貰《もら》えそうになって来たし、不幸ということがすっかり分らなくなって来たし、こんな有り難い
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