しょうがありませんの。」
「そうでございますわね。でも、もう直ぐ、あんなにお笑いになれますわ。」
看護婦たちはまた花の中から現われると、一枝ずつ花を折った。彼女たちは矢車草の紫の花壇と薔薇の花壇の間を朗かに笑いながら、朝日に絡《からま》って歩いていった。噴水は彼女たちの行く手の芍薬《しゃくやく》の花の上で、朝の虹を平然と噴き上げていた。
十二
彼の妻の腕に打たれる注射の数は、日ごとに増していった。彼女の食物は、水だけになって来た。
或る日の夕暮、彼は露台《バルコオン》へ昇って暮れて行く下の海を見降《みおろ》しながら考えた。
――今は、ただ俺は、妻の死を待っているだけなのだ。その暇な時間の中へ、俺はいったい、何を詰め込もうとしているのだろう。
彼には何も分らなかった。ただ彼は彼を乗せている動かぬ露台《バルコオン》が絶えず時間の上で疾走しつつあるのを感じたにすぎなかった。
彼は水平線へ半円を沈めて行く太陽の速力を見詰めていた。
――あれが、妻の生命を擦《す》り減《へ》らしている速力だ、と彼は思った。
見る間に、太陽はぶるぶる慄《ふる》えながら水平線に食われていった。海面は血を流した俎《まないた》のように、真赤な声を潜《ひそ》めて静まっていた。その上で、舟は落された鳥のように、動かなかった。
彼は不意に空気の中から、黒い音のような凶徴《きょうちょう》を感じ出した。彼は急いでバルコオンを降りていった。向うの廊下から妻の母が急いで来た。二人は顔も動かさずに黙って両方へ擦れ違った。
「あのう、ちょっと、」と母は呼びとめた。
彼は振り向いて黙っていた。
「今夜は、キーボ、危いわね。」
「危い。」と彼はいった。
二人はそのまま筒《つつ》のような廊下の真中に立ち停っていた。暫《しばら》くして彼は病室の方へ歩き出した。すると、付添いの看護婦がまた近寄って来て彼を呼びとめた。
「あのう、今夜はどうかと思いますの。」
「うむ。」と彼は頷いた。
彼は病室のドアーを開けると妻の傍へ腰を降ろした。大きく開かれた妻の眼は、深い水のように彼を見詰めたまま黙っていた。
「もう直ぐ、だんだんお前も良くなるよ。」と彼はいった。
妻は、今はもう顔色に何の返事も浮べなかった。
「お前は疲れているらしいね。ちょっと、一眠りしたらどうだ。」
「あたし、さっき、あなたを呼
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