ことはそうやたらにあるもんじゃない。お前も、ゆっくり寝てるがいい。もう少しお前が良くなれば、俺はお前を負《お》んぶして、ここの花園の中を廻ってやるよ。」
「うむ、」と妻は静に頷いた。
 彼は危く涙が出そうになると、やっと眉根で受けとめたまま花壇の中へ降りて来た。彼は群がった夜の花の中へ顔を突き込んだ。すると、涙が溢《あふ》れ出《だ》した。彼は泣きながら冷たい花を次から次へと虫のように嗅ぎ廻った。彼は嗅ぎながら激しい祈りを花の中でし始めた。
「神よ、彼女を救い給え。神よ、彼女を救い給え。」
 彼は一握の桜草《さくらそう》を引きむしって頬《ほお》の涙を拭きとった。海は月出の前で秘めやかに白んでいた。夜鴉《よがらす》が奇怪なカーブを描きながら、花壇の上を鋭い影のように飛び去った。彼は心の鎮《しず》むまで、幾回となく、静な噴水の周囲を悲しみのように廻っていた。

       十一

 その翌朝早くから彼の妻の母が来た。彼女は娘の顔を見ると泣き始めた。
「君坊、どうした。まア、痩《や》せて。もっと早く来ようと思ったんだけど、いろいろ用事があって。」
 彼の妻はいつものような冷淡な顔をして、相手の騒ぐ様子を眺めていた。
「お前、苦しいのかい。おっ母《か》さんはね、毎日お前のことばかり思ってたんだよ。早く来たくって来たくって、しょうがなかったんだけど、皆家のものが病気ばかりしていてね。」
 彼は手紙に書かなかった妻の病状をもう母親に話す気は起らなかった。彼は妻を母親に渡しておいてひとり日光室へ来た。日光室のガラスの中では、朝の患者たちが籐《とう》の寝椅子《ねいす》に横たわって並んでいた。海は岬に抱かれたまま淑《しとや》かに澄んでいた。二人の看護婦が笑いながら現われると、満面に朝日を受けて輝やいている花壇の中へ降りていった。彼女たちの白い着物は真赤な雛罌粟の中へ蹲《しゃが》み込《こ》んだ。と、間もなく、転げるような赤い笑顔が花の中から起って来た。
 彼の横で寝ていた若い女の患者も笑い出した。
「まア、あんなに嬉しそうに。」
「ほんとにね。でも、もうあなたも、すぐあそこをお歩きになれますわ。」と隣りの痩せた婦人がいった。
「そうでございましょうかしら、でも。」
「ええ。ええ、昨日も先生が、そう仰言《おっしゃ》っていられましてよ。」
「あたし、あの露のある芝生の上を、一度歩きたくって
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