っていなかった。
 米は姉に逢《あ》いたいと思った。殊に二人が喧嘩《けんか》した時のことを想い出すと溜《たま》らなく逢いたくなった。しかし彼は姉へ手紙を出す時、かばんと小刀《こがたな》とを帰りに買って来てくれとは必ず忘れずにいつも書いたが、逢いたくてならぬとか、早く帰ってくれとかは決して書かなかった。というのは、自分の愛情を現すことを羞《はずか》しく思いもしたし、また、そのことを母に見られるのをきまり悪く思ったからでもあった。

     三

 学枚の門を出る時、米は白墨を拾った。帰る途々《みちみち》、彼は何処か楽書《らくがき》をするに都合の好さそうな処をと捜しながら歩いた。土蔵《どぞう》の墨壁は一番魅力を持っていた。けれども余り綺麗《きれい》な壁であると一寸《いっすん》ほどの線を引いて満足しておいた。
 村端まで来て、道の片側に沿って流れている小川にかかった御陰石《みかげいし》の橋を見た時、米は此処が最も楽書するのに適していると思った。そして最初に滑《なめら》かそうな処を撰《えら》んで本という字を懸命に書いてみた。草履《ぞうり》は拭物《ふきもの》の代りをした。彼は短い白墨が磨《す》り減《へ》って来ると上目《うわめ》をつかって、暫く空を見ていてから
 「カネサント、オカサントユウベ」
と書いた。彼はその次を書かなかった。なぜかというと昨夜眼を醒《さま》した時、真暗な自分の横で母と男とが低い声で話していたのはもしかしたなら夢であったのかもしれぬと思ったから。しかし、男の堅い手がそっと自分の手を強く圧《おさ》えて直ぐひっこめたのは確《たしか》に夢ではなかったと思った。そして、彼はそれ以外に何も記憶になかった。
 彼は立ち上って石橋の上から去ろうとした、が、十歩ほど行くと後へ戻って橋の上の字を草履で消した。そしてもう一度書いてみたけれどもやはり消した。後はぶらぶら歩き出すと急に走り出した。走り出ると反《そ》り返《かえ》って白墨を高く頭の上へ投げて踏《ふ》み潰《つぶ》した。そしてまたぶらぶら五、六歩あるくと走り出した。
 村へは入った処で染物屋《そめものや》があった。米はそこの雨垂落《あまだれおち》に溜っている美しい砂を見ると蹲《しゃが》み込《こ》んでそれを両手で掬《すく》ってはばらばら落してみた。終《つ》いには両足を投げ出した。そして、大きな砂粒をかき去《の》けると人差
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