を長らく見ていた。母は銚子を持ったまま何か話している主人の顔を見続けていた。そして時々顎《あご》を動かした。しかし何時《いつ》までたっても子の方を向かなかった。
子は悲しくなった。で、顔を戸袋からひっこめて「お母さん。」と呼んだ。
「はいはい。」
そう母はいった。ほど経《へ》て母が何かいって帰ってくるらしいけはいがしたので子は火鉢《ひばち》の傍へ走り込んだ。
母は眼の縁《ふち》を少し赤くして帰って来ると、
「まだ眠てやないの。」と微笑っていった。子は黙って母の手を引張って叩《たた》いた。
「さアもう寝な。また明日学校が遅れるえ。」
子は口を尖《と》がらせて母の手の指を咬《か》んだ。母は「痛ッ」といって手を引っこめた、そして些《ちょ》っと指頭《ゆびさき》を眺めてから「まアこの子ったら。」といった。子は黙って母を睥《にら》んでいた。そして、「お母さんの阿呆《あほ》。」というと母の手を掴んでもう一度咬もうとした。母は子の背中を押すようにして「此処《ここ》をかたづけたら直ぐ寝るでなお前は前《さき》へ寝てなえ、ほんとにお前は賢いえ。」そういうと子を寝床の方へ連れて行った。
二
その日は刺繍《ししゅう》の先生の市《まち》から村へ廻って来るのが遅れていた。
米の母は、六年前にアメリカヘ行った良人《おっと》から病気という報《しら》せを受けとって以来半年余り送金が絶えているにもかかわらず、まだ刺繍を習っているということについて、親戚側からとやかくいわれた。しかし彼女は、少々の金を費《ついや》してもこれさえ覚えておけばまさかの時に役立つといって習い続けた。
刺繍の先生は遠い市から月に一回|欠《かか》さず村へ廻って来た。米の村では母だけが刺繍を習っていた。これを習う最初にあたって先ず、何処《どこ》でも、その習う期間は先生を自分の家に宿泊させる約束をしなければならなかった。米の家でもその約束を守っていた。初めのほどは、十五になった米の姉と母とが習っていた。しかし、父から送金が絶えると共に母は娘を看護婦の見習生《みならいせい》として市へやって自分独り習い続けることにした。
米はその時から自分の家が非常に貧しくなったのだと知った。しかし、何処が前よりも貧しくなったのかは分らなかった。また、ただ、姉が彼と一緒の家にいないという事以外に生活の様子は前とは少しも変
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング