はな、鶏を食べていやはるのや。」と子は母を見上げていった。
 「そんな事をいうものやない。」と母はいった。隣家の裏庭の重い障子《しょうじ》の開く音がすると、縁側の処《ところ》へ近所の兼助《かねすけ》という男が赤い顔をして立っていた。
 「お里《さと》さん、御馳走《ごっそ》だすぜ、さアお出《い》でやす。」そう男がいって子供を抱く時のように両手を出して一度振るとひょろひょろとした。
 母は微笑《わら》って「え、大きに。」といった。
 「さア、早ようやなけりゃ駄目《いけ》まへんぜ。」
 「この子がいますで後ほどまたおよばれしますわ。」と母はいった。
 「何アに、米《よね》さんは一人寝せときゃええさ、なア米さん、独人《ひと》り寝てるわのう。」と男は顔を少し突き出した。
 子は男から顔をそむけて黙って母の顔を見上げた。
 「お前ひとり寝てる?」と母は訊《き》いた。
 子は顔を横に振った。
 「あんなにいうておくれはるのやで、お前ひとり寝てな、え、直《じ》きにお母さんが帰って来るで。」
 「好《え》えさ好えさ、赤子《あかご》じゃあるまいし。」そういうと男は「どっこいしょ。」と背後へ反《そ》り返《かえ》った。母は子の頭を膝から起して「待っておい。」といって笑いながら縁側の方へ立った。そして「下駄《げた》がないわ。」と呟いた。
 「下駄のような物|入《い》るものか。」
 と男はいうと彼女の手首を掴《つか》まえて背を向けると両手で彼女の足を抱いて歩き出した。母は男の背の上で「険《あぶな》い険い。」と笑い声でいった。
 子は縁側へ走り凭《よ》って戸袋《とぶくろ》からのり出した。すると男の背上で両足をかかえられている母が隣家の庭の真中でひょろひょろしているのを見た。子は男が憎くてならなかった。そして母が非常に悪いことをしているような気がした。
 「丁度好えぞ、兼さん。」
 赤い顔をした隣家の主人がそういって笑うと、傍の主婦は脱けた前歯を手で隠すようにして淡笑《うすわら》いをした。
 子は室《へや》へは入って障子の片端を胸に押しつけると、指を舐《な》めてぷすぷすと幾つも障子に穴をあけた。もう眠たくなかった。
 暫くして子は戸袋の処からまた隣家の庭をソッと覗《のぞ》いた。母が兼の横に坐って銚子《ちょうし》を捧《ささ》げるようにしているのが見えた。子はもう母が自分の方を向くだろうと思ってその方
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