れた。
 彼女は漸《ようや》く起き上ると、青ざめた頬《ほお》を涙で濡《ぬ》らしながら歩き出した。彼女の長い裳裾は、彼女の苦痛な足跡を示しつつ緞帳の下から憂鬱《ゆううつ》に繰り出されて曳《ひ》かれていった。
 ナポレオンの部屋の重々しい緞帳は、そのまま湿った旗のように明方まで動かなかった。

        五

 その翌日、ナポレオンは何者の反対をも切り抜けて露西亜《ロシア》遠征の決行を発表した。この現象は、丁度彼がその前夜、彼自身の平民の腹の田虫をハプスブルグの娘に見せた失敗を、再び一時も早く取り返そうとしているかのように敏活であった。殊に彼はルイザを娶《めと》ってから彼に皇帝の重きを与えた彼の最も得意とする外征の手腕を、まだ一度も彼女に見せたことがなかった。
 ナポレオン・ボナパルトのこの大遠征の規模作戦の雄大さは、彼の全生涯を通じて最も荘厳華麗を極《きわ》めていた。彼は国内の三十万の青年に動員令に対する準備を命じた。更に健全な国内の壮丁九十万人を国境と沿海戦の守備に充《あ》てた。なおその上に、彼はフランス本国から二十万人を、ライン同盟国から十四万七千人、伊太利から八万人を、波蘭《
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