ただ裸像の彫刻だけが黙然と立っていた。すると、突然ナポレオンの腹の上で、彼の太い十本の指が固まった鉤《かぎ》のように動き出した。指は彼の寝巻を掻《か》きむしった。彼の腹は白痴のような田虫を浮かべて寝衣《ねまき》の襟《えり》の中から現れた。彼の爪は再び迅速な速さで腹の頑癬を掻き始めた。頑癬からは白い脱皮がめくれて来た。そうして、暫くは森閑とした宮殿の中で、脱皮を掻きむしるナポレオンの爪音だけが呟くようにぼりぼりと聞えていた。と、俄《にわか》に彼の太い眉毛《まゆげ》は、全身の苦痛を受け留めて慄《ふる》えて来た。
「余はナポレオン・ボナパルトだ。余はナポレオン・ボナパルトだ」
彼は足に纏《まつ》わる絹の夜具を蹴《け》りつけた。
「余は、余は」
彼は張り切った綱が切れたように、突如として笑い出した。だが、忽《たちま》ち彼の笑声が鎮《しず》まると、彼の腹は獣を入れた袋のように波打ち出した。彼はがばと跳《は》ね返った。彼の片手は緞帳の襞《ひだ》をひっ攫《つか》んだ。紅の襞は鋭い線を一握《ひとにぎり》の拳の中に集めながら、一揺れ毎に鐶《かん》を鳴らして辷《すべ》り出した。彼は枕《まくら》を攫んで
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