云ふと赤くなつた眼で判事を見た。
「ふむ、お前はあの酔漢の妻が困つてゐたのを知つてゐたのか。あの妻は困つてゐたのだ。毎夜毎夜良人が夜遊びをして家を空けるので困つてゐたと云ふことだ。お前は何かね、あの男と妻とが、いつも争ひをし続けてゐたのも知らなかつたのかね。」
「はい。」と云つて、被告は鼻を拭いたが、直ぐまた頭をかかへた。
「妻から離縁を迫られてゐたさうだ。ああ云ふ放蕩者は実際の所を云ふと、死んでも別に差し閊へがないのだが、本官は一応取り検べる必要上お前を悲しませてみただけである。さう悲しまなくともよい。多分お前は列車の近づくのが分らなかつたのであらうね。」
 被告は黙つてゐた。
「お前は最後までその男の出て行くのを引きとめてゐたのであらうな。」
 矢張り被告は答へなかつた。彼は大きく溜息をつくと顔を顰めた。
「そこが大切な所ではないか。どうだ。さうであらう。」
「はい。」
 さう被告は低く答へると涙がまた頬を伝つて流れ出した。
 自分の言葉のために被告の態度がどんなに変つてゆくかと云ふことを眺めてゐた判事には、被告の様子がまだいかにも悲しさうに見えた。しかし、彼には被告の悲しみは自分
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