た。そればかりではなかつた。彼は彼自身漸く握り得たと思つた疑ひの確証さへも再び前のやうに取り失つた。何ぜかと云へば、彼は自分の手段が自分ながらいかにも巧妙であつたと賞讃したい程であつたから。実際いかなるものと云へども、譬へばもしも明らかに故意の殺人ではなかつたと知り得ることの出来る判事自身でさへ、被告の立場に置かれたとき、その巧みな判事の言葉のために被告と同じ悲しみの言動に落されない者はあつたであらうか。それを思ふと、判事の疑ひは却つて彼自身の弁舌の巧みさに邪魔されてまた尽く迷蒙の中に這入つていつた。しかし、それかと云つて彼はまだ自分の疑ひを捨て去ることは出来なかつた。そこで、彼は被告から最も信用すべき自白の言葉をきくためには、今一度被告に投げ与へた悲しみを逆に取り消してかからなければならないのを知つた。
「お前は前にあの酔漢を見たと云つたね。」
 被告は答へなかつた。
「よく知つてゐたのかな。」
 被告は何かを飲み込むやうに「はい。」と云つた。
「あの男はいつも泥酔してゐたのかね。」
「はい。」
「お前は妻のあつたとき、廓へは行つたことがあつたか。」
「ございません。」と被告は鼻声で
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