は通つてやるぞ、つてそんなことも云ひましたね。」
「ふむ、さうして、それだけか、まだ何とか云はなかつたか。」
「もう覚えてはをりません。何んだかまるきり他のことを饒舌つてゐたやうですが、何のことだかよく私には分りませんでした。」
「お前は日頃通行人をあまり早くから止めると云ふ評判だが、それはどう云ふつもりかな。」
「早くとめる方が安全で良からうと思ふのです。」
「事実それだけかな。」
「はい、それだけです。」
「止《と》めることを面白いと思つたやうなことは一度もなかつたか。」
「さうでございますね、さう云はれますとそんな気も時々はございました。」
「何ぜ面白いと思ひ出したのかね。」
「それは解りません。」
「いつ頃からそんな面白味を知り始めたのか分らないか。」
「最初からのやうです。」
「矢張り面白いといつも思つてゐたのであらう。」
「そんなことはございませんよ。」
「お前は近年道路を遮断するとき、通行人とよく争ふと云ふことだがそんな覚えはあるかな。」
「はい。」
「争ふかね。」
「はい少し早い加減にとめる時よくそんなことがございます。」
「それが近年になつてひどくなつて来たと云ふことだが、事実であらうな。」
「さうでございます。少しひどくなつたやうにも思はれます。」
「面白味を知り始めたと云ふのも、独身者になつてからではないかな。」
「いえ、それや、さうではございません。」
「ふむ、しかし、路をとめると云ふことは、そんなに面白いものかね。」
「何ぜだか、この路は俺の領分だと云つたやうな、そんな気がするんです。」
「なる程ね、お前の職業はただ気ばかり使ふだけで実の上らぬ仕事だから、面白くはなからうの。」
「はい。」
「疲れはせぬかな。」
「疲れます。」
「さうだらう。十九年もよく務まつたな。病気にはかかつたことがあるかな。」
「時々はかかりました。」
「ふむ、遊廓《あそび》には行くかな。」
「行きません。」
「行きたくはないのか。」
「行つてみたいこともございます。」
「では行けばよいではないか。」
「行つたつてつまらないんです。」
「どうしてだ。」
「つまりませんよ、馬鹿らしうて。」
「金がないのか。」
「金はございます。」と被告は云ふと、暫くして、「困りますよ。」と低く俯向いて云つた。
「ふむふむ、ぢや何か、そのお前の噂が廓にまで拡つてゐるとみえるね。」
 被告は黙つてゐた。
「いつ頃から行かなくなつたのだね。」
「もう一年以上行きません。」
「さうか、そして、その最後のときはどうだつた。つまりどんな目に会つたのかと云ふのだ。何かつまらないと思ふやうなことでもあつたのかね。」
「私が行くといやな顔をします。」
「ふむふむ、いやな顔をね、何とか云ふのか。」
「はい。」
「何と云つたのだ。」
「幽霊が来たと申します。」
「ふむ、それはどう云ふ意味のことだかお前は知つてゐるのかね。もつともお前に関したことだらうが、成程ね、幽霊か。」
「家内のことだらうと思ひます。」
「ふむ、成る程、それは困つたことだ。遠くの廓へ遊びに行けばよいではないか。それとも何か行かなくともいいやうな所があるのかね。」
「いえ、ございません。」
「ないのか、なくては困るであらう。夜はよく眠れるかね。」
「眠れません。」
「さうであらう。夢を見るかな。」
「はい、夢はよく見ます。」
「どう云ふ種類の夢を一番よく見るか。」
「歯の抜ける夢をよく見ます。それから、熟柿のべたべた落ちる夢も時々みます。」
「ははア、酔漢の通つた前夜はどんな夢を見たかな。」
「それはよく覚えてをりません。」
「ふむ、覚えてはゐないか。お前はその酔漢を見たとき、どう思つたか、粋客《あそびにん》だとは思つたらうね。」
「はい、いづれ遊興《あそび》に行くとは思ひました。」
「その男は金持ちだつたかね。」
「はい。」
「お前はいつも粋客を見たとき、どんな気持ちが起るかね。」
「慣れてゐますから、別にどうと云ふ気も起りません。」
「お前の勤務時間は夜の十二時だつたね。」
「はい。」
「それにしては、お前の務め時間以外のときまで見張りをすると云ふのはどうしたことかな。」
「それは癖になつてゐるのです。眠れないときだけは、いつも番をすることにしてをります。その方が私には都合が良うございます。」
「都合と云ふと。」
「その方がつまりまア楽な気がするのです。」
「人々のためを思つてではないのだね。」
「はい。」
「あの通りは坂になつてゐるし、それにお前の踏切は人通りが多いから、遅くまで見張りをしてやる方がいいではないか。」
「そんなことなど思つてはゐられませんよ。直ぐには寝つかれませんから見張りでもしてゐないと苦しくつて困ります。」
「通行人や近所の者達は、お前があまり早くから鎖をひいたり夜遅くまで見
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