張りをしたりすることについて、どのやうな評判をするか考へたことがあるかね。」
「はい、それはいづれよく云はれてゐないとは思つてゐます。」
「では人々から悪く思はれないやうに心掛けるよりも、自分の面白いことをしてみたいと云ふのかね。」
「まア、さう云はれるとそのやうなものですが、もう私は他人の云ふやうなことなぞに気をかけないでゐるつもりです。そんなことを気にしてゐた日には、馬鹿らしくてとてもあんな仕事なんかしてゐられません。」
被告は一寸言葉を切ると、
「もう私はどうされたつてようございますよ。」とさう云つて判事を見上げた。
先手に来たな、と判事は思つた。最早やここまで来れば少し被告の頭を翻弄してかからなければ駄目だと知つた。それに被告の先手を打つたその顔が、真面目であればある程それがいかにも図々しく思はれた。が、又一方その図太さが二人の間の心理的関係を複雑に押し進めては行くものの、却つて自分の疑つてゐる事件の中心に割り込み易い隙間を作るにちがひないと判事は思つた。
「お前には世間の者らが自分の味方のやうに見えるかね。」
「そんなことは私は考へたことがございません。」
「お前が路を遮断するとき、人々が敵のやうに思へたことはなかつたかな。」
「はい、ございませんでした。」
「いや、お前に限らず踏切の番人には、心理学的に云つて、即ち学問上から考察した場合、必ず起らなければならない気持ちなんだが、それでもなかつたとお前は云ふか。」
「それは何んでございます、幾らかはございました。」
「お前はその夜、酔漢を引きとめるとき、誰もあたりに見てゐないと云ふことを知つてゐたらうね。」
「いえ、そんなことは存じませんでした。」
「前に知つてゐたと答へたではないか。」
「いえ。そんなことは申しませんよ。そんなことは申し上げません。」
「では、何ぜ知らないとさうきつぱり云ひたいのかな。」
被告は微笑を洩すと下唇を噛んで俯向いた。
「お前はその夜の行為について万事正当だと思つてゐるかね。」
「はい。」
「では、知らないと云つても、知つてゐたと云つても、お前には少しも差し閊へのない筈ではないか。」
「はい、さやうでございます。」
「お前はその夜、酔漢を引きとめる際、あの男を敵のやうには思はなかつたかな。」
「いえ、それやそんな気は起りませんでした。」
「お前は前に社会主義に関する何かの書物でも見たことがあつたかね。」
「いえ。」
「誰からかさう云ふ書物に書いてあることを訊いた覚えはないか。」
「はい。ございません。」
「お前は傭員が時間短縮を鉄道局へ迫つたとき、それに連名してゐたと云ふではないか。」
「はい。」
「では、何ぜあのやうな社会主義的な訴へに連名してゐたのかな。」
「それは仕方がなかつたのです。私にはあんなことをするのが社会主義のやることだかどうかは知りませんでした。たゞ這入れと云はれましたので這入つただけでございます。」
「お前はいつも金持ちをどんな風に思つてゐるな。」
「別にどうとも思ひません。」
「金持ちにはなりたくないのか。」
「それやならしてやらうと仰言《おつしや》ればなりたうございます。」
「お前に連名をすすめたものは誰かな。誰かあつたであらう。」
「誰もございません。紙が廻つて来たので見ますと、それには私の名がちやんと書いてあつたのです。それには名前の上へ賛成のものは印を捺すやうと書いてございましたので、ただ印を捺しましただけでございます。」
「誰がその紙を持つて来たのか。」
「それは私の名の前に書いてあつた服部勘次と云ふ男です。」
「その男の職業は何かな。」
「同じ踏切番でございます。ただあの男は乙種の方です。」
「乙種と云ふと。」
「昼の間だけ番をするのです。」
「お前は甲種と云ふのかな。」
「はい。」
判事はこのかなりに長い審問から、自分の質問の中心点である被告が性的な嫉妬から蕩児を轢殺したのかそれとも階級的な反感から轢殺したものかと云ふ疑ひを、相手に知らしめて了つただけで、ただ得たものは自身のその疑ひを僅かに強めることが出来たにすぎないと思ふと、彼の気持ちは一刻も早く被告に自白を迫りたくなつて来た。それには、先づ何より被告の頭に激動を与へてかからなければ無駄だと知つた。
「お前が早くから道路を遮断すると云ふのは、世間のものが敵のやうに見えたからであらうがな。」
「いえ、それはさうではございません。」
「あの道が自分のものだと思ひ出したのも、お前が独身者になつてからのことであらう。」
「いえ、さうではございませんよ。それはもう、私が務め出したときからでございます。」
「偽りを云つてはならぬ。」
「はい、それはもう最初からさう思つてをりました。」
「お前は夜遅く廓へ通ふ者達を見ると敵のやうに思ふであらう。」
「御冗談を
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