仰言《おつしや》つては困りますよ。私は決してそんな考へは起しません。」
「何ぜ困るのか。」
「そんなことを仰言つては困りますよ。」
「お前に都合が悪いのか。」
「都合が悪いと云ふわけではございませんが、そんな考へなぞ起したことはございません。」
「お前はお前の都合のよいときばかり、はいはいと云つてゐたのか。」
 被告は何か云ひたさうに口を動かしたが黙つてゐた。ただ小鼻がひとりぴこぴこ動いてゐた。すると、彼の顔は眼の縁を残して少し青味を帯んで来た。
「お前はあの酔漢を金持ちと見たとき、敵のやうに思つたのであらう。」
「はい。」
「事件の当夜、お前は列車の来たのを見はからつてその酔漢を突き飛ばしたのであらう。」
「はい。」
 被告は窓の外を見たまま傲然としてゐた。
「さうであらう。」
 被告は黙つてゐた。
「どうだ。」
「もうどうなりとして下さい。」と被告は強く云ひ放つた。
 判事は被告の怒つた顔を見てゐると、事実事件の当夜の被告の行為が自分の疑ひと一致してゐるとすれば、まさか今の場合さうむきに怒ることが出来なからうと思はれて、今迄感じてゐた自分の疑ひもいくらかとけた。しかし、被告の怒りもこちらの横車を押した論理のために怒つたものと思へないではなかつた。してみれば、被告の怒りも、別に、心に覚えのないことをあるやうに云はれたときの根深い怒りとも思はれなくなつて来て、結局判事にはまた以前の疑ひが凝ひとしてつきまとつて来た。しかし、なほこれ以上審問を続けて行くとすれば、被告の反感を拭いてかからなければならなかつた。判事は顔に微笑を湛へながら静に優しく問ひ続けた。
「お前はあの轢死人に妻のあるのを知つてゐるだらうね。」
 被告はまだ窓の外を見たまゝ答へなかつた。
「子供もたしかあつた筈だつたが、それも知つてゐるのかね。」
 被告は矢張り黙つてゐた。
「少しもお前は知らないのかな。どうなのだ。」
「知つてゐます。」と被告は敵意を含んだ声で強く云つた。
「さうか、知つてゐるのか。お前がもしそのとき酔漢を引きとめずに、素直に通してをいてやつたら、あの男を死なさずに済んだであらうとは思はないかな。」
 被告は黙つてゐた。
「もしお前がいつも通行人に対して、優しい心を持つてゐたなら、そのときだつて故意に鎖の権利で引きとめないで通しておいたと思ふであらう。無論死人も悪い。だが、お前にしても全然いいことをしたのではなからう。たとひお前がどれほど正当であるにしろ、お前はあの踏切りでさう云ふ轢死人のないためにと置かれた番人ではないか。それにお前があの男の傍にゐなかつたらともかく、さうではなくてお前が現にその傍についてゐたのだからね。そればかりではない、お前がもしそのとき、そこにゐなかつたなら、却つてあの男も助かつてゐただらう。それにお前がゐたばかりにあの男は死んだのだ。あの男の妻はお前のことをどんな風に思てゐるか考へたことはないかな。」
 判事の方を見た被告の眼は急に光つて来た。
「お前は妻のあつたときは楽しかつたであらう。」
「はい。」と被告は小さく云つた。
「お前は妻と子のある立派な一人の男を殺したのだとは思はないか。お前には楽しいことが何もないと云つたが、それは成る程よく分る。だが、あの男にはまだまだ楽いことがあつたのだ。世の中が面白かつたのだ。さう思ふであらう。」
 被告は黙つて俯向いてゐた。
「あの男が死んだなら、妻と子供はどんなに困ると思ふ。お前はいゝ。お前はひとりで淋しく暮さねばならぬと云つてもそれは仕方がない。だが、残つたあの男の妻と子供は、何もわざわざ淋しく暮さないでもよいものを一生淋しく暮さねばならないのだ。お前はたとひ自分のしたことが正当だと思つても、死人の妻や子供はいつまでもお前を恨んでゐるにちがひない。矢張りお前に殺されたのだと思つてゐるにちがひない。それはお前がいくら正当だと云ひ張つたにしろ、さうは思ふまい。矢張り殺したのはお前であつて他の誰でもないのだからな。」
 判事は被告の頭が垂れ下つて行くのを眺めてゐた。
「ここだツ。」と判事は思つた。彼は勝ち誇つた気持ちになつた。「お前はその男を突き飛ばしたのであらう。」と云ひたかつた。が、そのとき、被告は急に頭を上げると怒つたやうな表情をして判事を睥んだ。すると、突然腹痛でも起つたかのやうに彼の顔が顰み出すと、涙が頬を伝つて落ち始めた。
「私が殺しました。はい殺しました。」
 何かに引つかかるやうな声でさう被告は云つた。判事は訳の分らぬ昂奮を感じて来た。
「お前はまだ踏切番がしたいかな。」と判事はまるきり心にもないことを訊いた。
 被告は椅子の上へ腰を降すと頭をかゝへ込んだまゝ答へなかつた。
 判事はかうも手易く誘ひ込まれて来た被告を思ふと、急に今迄の勝ち誇つた気持ちが薄らぐのを感じ
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