に責任がないと云ふことを知つてゐるだらうね。」
「はい、それはよく存じてをります。」
「三日の夜の轢死人は泥酔してゐたと云ふが事実であらうな。」
「はい。」
「ではそのときの様子を成る可く精細に話してみよ。嘘を云つてはならぬぞ。」
「はい、さうでございますね。あのう十二時二十分の貨物列車の下つて来るまでには少々間がありましたので、それで、私は夕暮に植ゑた孟宗竹を見に行つたのです。」
「ああ一寸待て、独り暮しになつてからどれほどになるな。」
「四年になります。」
「四年か、ふむ、植木は好きかな。」
「はい、いたつて好きでございます。」
「よしよし、それからどうした。」
「それから何かしたいと思ひましたが、することがなかつたので鎖を曳いて了ひました。そこへ泥酔人《よひどれ》が坂を下つて来て通せと云ふのです。」
「そのとき貨物の音はしてゐたのか。」
「はい、もうしてをりました。」
「通してやればよかつたではないか。」
「はい、私はいつも一度鎖を引けば通る程の時間がございましても通さないことにしてをります。そのときも矢張り通しませんでした。するとあの男は、それぢや俺が通つてやると云つて私の引つ張つてゐる鎖の中程の所へ腹をあてて出ようとしたんです。私は必死の力で引いてゐたのですが、そのうちに私もそれについて二足三足曳かれてゆきました。そのとき、来たな、と思ひました。あなたさまは貨物列車の音を御存知でせうが、貨物の音は普通の客車とは違つて奇妙な音なんです。あの車の音は少し遠くにゐるときも傍まで来たときも同しほどの激しさなんです。それに、あの夜は真暗な所へもつて来て貨物列車が又真黒な物ですから、どこまで来てゐたのだかはつきりしなかつたんです。貨物はそれで一番恐ろしうございます。私はそのとき鎖を、かう必死に引つ張つたんですが、あの男はもう余程線路の近くまで出てをりました。もつとも私が傍まで行つて突き飛ばすか引き戻すかしてやれば、あの男も助かつてゐたと思ひますが、何分そのときはもう度胆がぬかれてをりましたし、それに、あの貨物の音を真近で聞きますと、それやもう変な気になつて了ふのです。何と云ひませうかね、もうただぼんやりして了ふのですよ。風に吸ひ込まれるやうな、何だか息がぐつとつまつて、眼まひがするんです。それでも私はよほどぐつと鎖をひつぱつたつもりなんですが、その中に、風がサツと来たと思つたら、私の鎖を持つてゐる手がひどく痛かつたのを覚えてをります。さうしたら、何でもあの男は私の眼の前をぱつと飛んで行きました。」
 判事は被告の話し方があまり整ひすぎてゐると思つた。
「一寸待て、そのとき、誰か見てゐたものがあつたかね。」と彼は訊かうとしたが、それではこちらの気持ちを知らしめる恐れがあつたので、
「誰か傍に人でもゐたかね。」と訊いてみた。
「いえ、をりませんでした。」
 と被告は直ぐに答へた。この場合その直ぐ明瞭に答へ得られたと云ふことは、被告が犯罪の際人目のないと云ふことを意識してゐたと思はれて、また判事の疑ひを尚強めた。
「ふむ、ゐなかつたか、しかし、見てゐたと云ふ者がゐるのだが、その者の云ふこととお前の云ふこととは少し相違してゐるやうであるぞ。偽りはないかね。」と判事は嘘を云つた。
「それは分らなかつたのでせう。何しろ暗かつたのでよく分らなかつたんでせう。どちらの側にをりました?」と被告は少しうろたへた様子で訊き返した。彼のうろたへたと云ふことは彼の陳述に不純な気持ちと作り事とが交つてゐたと云ふことを判事に教へた。
「お前はその酔漢が鎖を引き摺つて出ようとしたとき、何ぜ手で引きとめなかつたか。」
「鎖で間に合ふと思つてゐました。」
「お前はその男をとめるのに何とか言葉をかけたのかね。」
「いえ、酒を飲んでゐるなと思ひましたので、相手になりませんでした。」
「ふむ、なる程。しかし、酒を飲んでゐると気付いたなら、なほ鎖でとめると云ふことがいけないぢやないか。」
「いえ、それはちがひますよ。鎖の方がとめやすうございます。普通の方はどなたもさうお思ひになりませうが、この道の者なら誰だつて鎖でとめると思ひます。それに、手でとめましては相手が相手ですから、なほ喧嘩になつてしまひますよ。」
「それはさうだね。喧嘩になりさうだ。で、何かね、その男が誰だつたかお前は最初から知つてゐたんかね。」
「それは見覚えはございました。」
「その男は最初に何とかお前に云はなかつたか。鎖でお前がとめるとき何とか。」
「さうですね、云ひました。何だか云つてたやうです。何をしやがる、ふざけるない、つてそんなことを云ひましたよ。」
「それだけかな。」
「いえ、まだ何とか云ひました。私は黙つてゐたのですよ。」
「何を云つた、その男は。」
「俺をとめるつてことがあるかい。俺はね、俺
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