と思つたら、私の鎖を持つてゐる手がひどく痛かつたのを覚えてをります。さうしたら、何でもあの男は私の眼の前をぱつと飛んで行きました。」
判事は被告の話し方があまり整ひすぎてゐると思つた。
「一寸待て、そのとき、誰か見てゐたものがあつたかね。」と彼は訊かうとしたが、それではこちらの気持ちを知らしめる恐れがあつたので、
「誰か傍に人でもゐたかね。」と訊いてみた。
「いえ、をりませんでした。」
と被告は直ぐに答へた。この場合その直ぐ明瞭に答へ得られたと云ふことは、被告が犯罪の際人目のないと云ふことを意識してゐたと思はれて、また判事の疑ひを尚強めた。
「ふむ、ゐなかつたか、しかし、見てゐたと云ふ者がゐるのだが、その者の云ふこととお前の云ふこととは少し相違してゐるやうであるぞ。偽りはないかね。」と判事は嘘を云つた。
「それは分らなかつたのでせう。何しろ暗かつたのでよく分らなかつたんでせう。どちらの側にをりました?」と被告は少しうろたへた様子で訊き返した。彼のうろたへたと云ふことは彼の陳述に不純な気持ちと作り事とが交つてゐたと云ふことを判事に教へた。
「お前はその酔漢が鎖を引き摺つて出ようとしたとき、何ぜ手で引きとめなかつたか。」
「鎖で間に合ふと思つてゐました。」
「お前はその男をとめるのに何とか言葉をかけたのかね。」
「いえ、酒を飲んでゐるなと思ひましたので、相手になりませんでした。」
「ふむ、なる程。しかし、酒を飲んでゐると気付いたなら、なほ鎖でとめると云ふことがいけないぢやないか。」
「いえ、それはちがひますよ。鎖の方がとめやすうございます。普通の方はどなたもさうお思ひになりませうが、この道の者なら誰だつて鎖でとめると思ひます。それに、手でとめましては相手が相手ですから、なほ喧嘩になつてしまひますよ。」
「それはさうだね。喧嘩になりさうだ。で、何かね、その男が誰だつたかお前は最初から知つてゐたんかね。」
「それは見覚えはございました。」
「その男は最初に何とかお前に云はなかつたか。鎖でお前がとめるとき何とか。」
「さうですね、云ひました。何だか云つてたやうです。何をしやがる、ふざけるない、つてそんなことを云ひましたよ。」
「それだけかな。」
「いえ、まだ何とか云ひました。私は黙つてゐたのですよ。」
「何を云つた、その男は。」
「俺をとめるつてことがあるかい。俺はね、俺
前へ
次へ
全14ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング