貧書生
内田魯庵

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宛《さ》も

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)今度|当選《あた》つたら

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)ズングリ[#「ズングリ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)能く/\な
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「やい亀井、何しおる? 何ぢや、懸賞小説ぢや――ふッふッ、」と宛《さ》も馬鹿にしたやうに冷笑《せゝらわら》つたはズングリ[#「ズングリ」に傍点]と肥つた二十四五の鬚《ひげ》※[#「参+毛」、第3水準1−86−45、44−5]《くしや》々の書生で、垢染みて膩光《あぶらびか》りのする綿の喰出《はみだ》した褞袍《どてら》に纏《くる》まつてゴロリ[#「ゴロリ」に傍点]と肱枕をしつゝ、板のやうな掛蒲団を袷《あはせ》の上に被《かぶ》つて禿筆《ちびふで》を噛みつゝ原稿紙に対《むか》ふ日に焼けて銅《あかゞね》色をしたる頬の痩《やつ》れて顴骨《くわんこつ》の高く現れた神経質らしい仝《おな》じ年輩《としごろ》の男を冷やかに見て、「汝《きさま》も懸賞小説なんぞと吝《けち》な所為《まね》をするない。三文小説家になつて奈何《どう》する気ぢや。」
「先《ま》ア黙つてろよ。」と亀井と呼ばれた男は顧盻《ふりかへ》つて較《や》や得意らしき微笑を浮べつ、「之でも懸賞小説の方ぢやア亀之屋万年と云つて鑑定証《きはめふだ》の付いた新進作家だ。今度|当選《あた》つたら君が一夜の愉快費位は寄附する。」
「はッはッ、減らず口を叩きくさる。汝の懸賞小説も久しいもんぢや。一度当選つたといふ事ぢやが、俺と交際《つきあ》つてからは猶《ま》だ当選らんぞ。第一小説が上手になつたら奈何するのぢや。文士ぢやの詩人ぢやの大家ぢやの云ふが女の生れ損ひぢや、幇間《たいこもち》の成り損ひぢや、芸人の出来損ひぢや。苟くも気骨のある丈夫《をとこ》の風上に置くもんぢやないぞ。汝も尚《ま》だ隠居して腐つて了ふ齢ぢやなし。王侯将相何ぞ種《しゆ》あらんや。平民から一躍して大臣の印綬を握《つか》む事の出来る今日ぢやぞ。なア亀井、筆なんぞは折つぺしッて焼いて了へ。恋ぢやの人情ぢやのと腐つた女郎の言草は止めて了つて、平凡《へぼ》小説を捻くる間《ひま》に少《ちつ》と政治運動をやつて見い。」
「はッはッ、僕は大に君と説が異《ちが》う。君は小説を能《よ》く知らんから一と口に戯作と言消して了うが、小説は科学と共に併行して人生の運命を……」
「措《お》いて呉れ、措いて呉れ、小説の講釈は聞飽きた、」と肱枕の書生は大|欠伸《あくび》をしつゝ上目《うはめ》で眤《じつ》と瞻《みつ》めつ、「第一、汝、美が如何《どう》ぢやの人生が如何ぢやのと堕落坊主の説教染みた事を言ひくさるが一向|銭《ぜに》にならんぢやないか?」
「今度は当選る、」と懸賞小説家は得意な微笑を口辺《くちもと》に湛へつ断乎たる語気で、「三月《みつき》以来《このかた》思想を錬上げたのだから確に当選る。之が当選らぬといふ理由は無い……」
「汝は自慢ばかりしおるが一度も当選つた事は無いぞ。併し当選つた処で奈何する、一年に二度や三度、十円や十五円の懸賞小説が取れたッて飯は食へんぞ。」
「勿論僕は筆で飯を喰ふ考は無い。」
「筆で飯を喰ふ考は無い? ふゥむ、夫《それ》ぢやア汝は一生涯新聞配達をする気か。跣足《はだし》で号外を飛んで売つた処で一夜の豪遊の足《たし》にならぬヮ。」
「僕は豪遊なんぞしたくない。斯《か》うして新聞配達をしながら傍《かたは》ら文学を研究してゐるが、志す所は一生に一度不朽の大作を残したいのだ。飯喰《めしくひ》の種《たね》は新聞配達でも人力車夫でも立ちん坊でも何でも厭はないのだ。」
「吝《けち》な野郎ぢやナ。一生に一度の大作を残して書籍館《しよじやくゝわん》に御厄介を掛けて奈何する気ぢや。五体満足な男一匹が女や腰抜の所為《まね》をして筆屋の御奉公をして腐れ死をして了つては国家に対する義務が済むまい。なッ亀井。俺の忠告に従つて文学三昧も好い加減に止めにして政治運動をやつて見い。奈何ぢや、牛飼君の許《とこ》から大に我々有為の青年の士を養うと云ふて遣《よこ》したが、汝、行つて見る気は無いか。牛飼君は士を待《たい》するの道を知りおる。殊に今度の次の内閣には国務大臣にならるゝ筈ぢやから牛飼君の客《かく》となるは将に大いに驥足《きそく》を伸ぶべき道ぢや。」
「僕は政治家は嫌ひぢや。」
「なにッ、政治家は嫌ひぢや、」と呆れたやうに眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、46−10]《みは》つて、「汝は能く/\な腰抜けぢやナ。天下の権を握
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