は判然しないが、京山の『蜘蛛の糸巻』、馬琴の『伊波伝毛之記《いわでものき》』および『作者部類』を照らし合わしてみると、彼我のいうところ(多少の身勝手や、世間躰を飾った自己弁護はあっても)、みな真実であろう。馬琴が京伝や蔦重《つたじゅう》の家を転々して食客となり、処女作『尽用而二分狂言《つかいはたしてにぶきょうげん》』に京伝門人大栄山人と署したは蔽い難い。僅か三歳でも年長者であるし、その時既に相応の名を成していたから、作者として世間へ乗り出すには多少の力を仰いだ事はあろうが、著作上教えられる事が余り多くあったとは思われない。京伝門人と署したのは衣食の世話になった先輩に対する礼儀であって、師礼を執って教を受けた関係でなかったのは容易に想像される。玄関番の書生が主人を先生と呼ぶようなものだ。もっとも一字の師恩、一飯の恩という事もあり、主従師弟の厳《やか》ましかった時代だから、両者の関係が漸く疎隔して馬琴の盛名がオサオサ京伝を凌がんとすると京伝側が余り快く思わぬは無理もないが、馬琴が京伝に頼った頃の何十年も昔の内輪咄《うちわばなし》を剔抉《すっぱぬ》いて恩人風を吹かし、人倫とはいい難しとまで京
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