うえ》』と『八犬伝』とがあった。畢竟《ひっきょう》するに戯作が好きではなかったが、馬琴に限って愛読して筆写の労をさえ惜しまず、『八犬伝』の如き浩澣《こうかん》のものを、さして買書家でもないのに長期にわたって出版の都度々々購読するを忘れなかったというは、当時馬琴が戯作を呪う間にさえ愛読というよりは熟読されて『八犬伝』が論孟学庸や『史記』や『左伝』と同格に扱われていたのを知るべきである。また、この外曾祖父が或る日の茶話に、馬琴は初め儒者を志したが、当時儒学の宗たる柴野栗山《しばのりつざん》に到底及ばざるを知って儒者を断念して戯作の群に投じたのであると語ったのを小耳に挟んで青年の私に咄《はな》した老婦人があった。だが、馬琴が少時栗山に学んだという事は『戯作者六家撰』に見えてるが、いつ頃の事かハッキリしない。医を志したというは自分でも書いてるが、儒を志したというは余り聞かない。真否は頗る疑わしいが、とにかく馬琴の愛読者たる士流の間にはソンナ説があったものと見える。当時、戯作者といえば一括して軽薄放漫なる※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]々者《がいがいしゃ》流として顰蹙《ひんしゅく》され
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