九歳の親兵衛《しんべえ》の名は桃太郎や金太郎よりも熟していた。したがってホントウに通して読んだのは十二、三歳からだろうがそれより以前から拾い読みにポツポツ読んでいた。十四歳から十七、八歳までの貸本屋学問に最も夢中であった頃には少なくも三遍位は通して読んだので、その頃は『八犬伝』のドコかが三冊や四冊は欠かさず座右にあったのだから会心の個処は何遍読んだか解らない。(私には限らない、当時の貸本屋フワンは誰でもだったが)信乃《しの》が滸我《こが》へ発足する前晩|浜路《はまじ》が忍んで来る一節や、荒芽山《あらめやま》の音音《おとね》の隠れ家に道節《どうせつ》と荘介《そうすけ》が邂逅する一条《ひとくだり》や、返璧《たまがえし》の里に雛衣《ひなきぬ》が去られた夫を怨ずる一章は一言一句を剰《あま》さず暗記した。が、それほど深く愛誦反覆したのも明治二十一、二年頃を最後としてそれから以後は全く一行をだも読まないで、何十年振りでまた読み返すとちょうど出稼人が都会の目眩《まぶ》しい町から静かな田舎の村へ帰ったような気がする。近代の忙《あわた》だしい騒音や行《ゆ》き塞《づま》った苦悶を描いた文芸の鑑賞に馴れた眼で見るとまるで夢をみるような心地がするが、さすがにアレだけの人気を買った話上手な熟練と、別してドッシリした重味のある力強さを感ぜしめるは古今独歩である。

       二 『八犬伝』および失明後終結

『八犬伝』は文化十一年、馬琴四十八歳の春|肇輯《じょうしゅう》五冊を発行し、連年あるいは隔年に一輯五冊または六、七冊ずつ発梓《はっし》し、天保十二年七十五歳を以て終結す。その間、年を閲《けみ》する二十八、巻帙《かんちつ》百六冊の多きに達す。その気根の大なるは東西古今に倫《りん》を絶しておる。もしただ最初の起筆と最後の終結との年次をのみいうならばこれより以上の歳月を閲したものもあるが、二十八年間絶えず稿を続けて全く休息した事がない『八犬伝』の如きはない。僅かに『神稲水滸伝』がこれより以上の年月を費やしてこれより以上の巻を重ねているが、最初の構案者たる定岡の筆に成るは僅かに二篇十冊だけであって爾余《じよ》は我が小説史上余り認められない作家の続貂狗尾《ぞくちょうくび》である。もっともアレだけの巻数を重ねたのはやはり相当の人気があったのであろうが、極めて空疎な武勇談を反覆するのみで曲亭の作と同日に語るべきものではない。『八犬伝』もまた末尾に近づくにしたがって強弩《きょうど》の末|魯縞《ろこう》を穿《うが》つあたわざる憾《うら》みが些《いささ》かないではないが、二十八年間の長きにわたって喜寿に近づき、殊に最後の数年間は眼疾を憂い、終に全く失明して口授《くじゅ》代筆せしめて完了した苦辛惨憺を思えば構想文字に多少の倦怠のあるは止むを得なかろう。とにかく二十八年間同じ精力を持続し、少しもタルミなく日程を追って最初の立案を(多少の変更あるいは寄道《よりみち》はあったかも知れぬが)設計通りに完成終結したというは余り聞かない――というよりは古今に例のない芸術的労作であろう。無論、芸術というは蟻が塔を積むように長い歳月を重ねて大きなものを作るばかりが能事ではない。が、この大根気、大努力も決して算籌外《さんちゅうがい》には置かれないので、単にこの点だけでも『八犬伝』を古往今来の大作として馬琴の雄偉なる大手筆《だいしゅひつ》を推讃せざるを得ない。
 殊に失明後の労作に到っては尋常芸術的精苦以外にいかなる障碍《しょうがい》にも打ち勝ってますます精進した作者の芸術的意気の壮《さか》んなる、真に尊敬するに余りがある。馬琴が右眼に故障を生じたのは天保四年六十七歳の八、九月頃からであったが、その時はもとより疼痛を伴わなかったのであろう、余り問題としなかったらしい。が、既に右眼の視力を奪われたからには、霜を踏んで堅氷到るで、左眼もまたいつ同じ運命に襲われるかも計り難いのは予期されるので、決して無関心ではいられなかったろう。それにもかかわらず絶倫の精力を持続して『八犬伝』以外『美少年録』をも『侠客伝』をも稿を続けて連年旧の如く幾多の新版を市場に送っておる。その頃はマダ右眼の失明がさしたる障碍を与えなかったらしいのは、例えば岩崎文庫所蔵の未刊|藁本《こうほん》『禽鏡』の(本文は失明以前の筆写であっても)失明の翌年の天保五年秋と明記した自筆の識語を見ても解る。筆力が雄健で毫《ごう》も窘渋《きんじゅう》の痕《あと》が見えないのは右眼の失明が何ら累をなさなかったのであろう。
 馬琴は若い時、医を志したので多少は医者の心得もあったらしい。医者の不養生というほどでもなかったろうが、平生《へいぜい》頑健な上に右眼を失ってもさして不自由しなかったので、一つはその頃は碌な町医者がなかったからであろう、碌な
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