手当もしないで棄て置いたらしい。が、不自由しなかったという条、折には眼が翳《かす》んだり曇ったりして不安に脅かされていたのは『八犬伝』巻後の『回外剰筆《かいがいじょうひつ》』を見ても明らかである。曰く、「(戊戌《つちのえいぬ》即ち天保九年の)夏に至りては愈々その異《こと》なるを覚えしかども尚悟らず、こは眼鏡《めがね》の曇りたる故ならめと謬《あやま》り思ひて、俗《よ》に本玉《ほんたま》とかいふ水晶製の眼鏡の価|貴《たか》きをも厭《いと》はで此彼《これかれ》と多く購《あがな》ひ求めて掛替々々凌ぐものから(中略、去歳《こぞ》庚子《かのえね》即ち天保十一年の)夏に至りては只朦々朧々として細字を書く事|得《え》ならねば其《その》稿本を五行《いつくだり》の大字にしつ、其《そ》も手さぐりにて去年《こぞ》の秋九月本伝第九輯四十五の巻まで綴り果《はた》し」とあるはその消息を洩らしたもので、口授ではあるが一字一句に血が惨み出している。その続きに「第九輯百七十七回、一顆《いつくわ》の智玉、途《みち》に一騎の驕将を懲《こ》らすといふ一段を五行或は四行の大字にものしぬるに字行《じのかたち》もシドロモドロにて且《かつ》墨の続《つ》かぬ処ありて読み難しと云へば其《そ》を宅眷《やから》に補はせなどしぬるほどに十一月《しもつき》に至りては宛《さな》がら雲霧の中に在る如く、又|朧月夜《おぼろづきよ》に立つに似て一字も書く事|得《え》ならずなりぬ」とて、ただ筆硯《ひっけん》に不自由するばかりでなく、書画を見ても見えず、僅かに昼夜を弁ずるのみなれば詮方《せんかた》なくて机を退け筆を投げ捨てて嘆息の余りに「ながらふるかひこそなけれ見えずなりし書巻川《ふみまきがは》に猶わたる世は」と詠じたという一節がある。何という凄惻《せいそく》の悲史であろう。同じ操觚《そうこ》に携わるものは涙なしには読む事が出来ない。ちょうどこの百七十七回の中途で文字がシドロモドロとなって何としても自ら書く事が出来なくなったという原稿は、現に早稲田大学の図書館に遺存してこの文豪の悲痛な消息を物語っておる。扇谷定正《おうぎがやつさだまさ》が水軍全滅し僅かに身を以て遁《のが》れてもなお陸上で追い詰められ、漸く助友《すけとも》に助けられて河鯉《かわこい》へ落ち行く条《くだり》にて、「其馬をしも船に乗せて隊兵《てせい》――」という丁の終りまではシドロモドロながらも自筆であるが、その次の丁からは馬琴の※[#「女+息」、第4水準2−5−70]《よめ》の宗伯《そうはく》未亡人おミチの筆で続けられてる。この最終の自筆はシドロモドロで読《よ》み辛《づら》いが、手捜《てさぐ》りにしては形も整って七行に書かれている。(視力の完全な時は十一行、このアトを続けたおミチのは十行。)中には『回外剰筆』にある通り、四行五行に、大きく、曲りくねって字間も一定せず、偏《へん》と旁《つくり》が重なり合ったり離れ過ぎたりして一見盲人の書いたのが点頭《うなず》かれるのもある。中にはまた、手捜りで指の上に書いたと見え、指の痕が白く抜けてるのもある。古今詩人文人の藁本の今に残存するものは数多くあるが、これほど文人の悲痛なる芸術的の悩みを味わわせるものはない。
が、悲惨は作者が自ら筆を持つ事が出来なくなったというだけで、意気も気根も文章も少しも衰えていない。右眼が明《めい》を失ったのは九輯に差掛った頃からであるが、馬琴は著書の楮余《ちょよ》に私事を洩らす事が少なくないに拘わらず、一眼だけを不自由した初期は愚か両眼共に視力を失ってしまってからも眼の事は一言もいわなかった。作者の私生活と交渉のなかった単なる読者は最後の『回外剰筆』を読むまでは恐らく馬琴が盲したのを全く知らなかったろう。一体が何事にも執念《しゅうね》く、些細な日常瑣事にすら余りクドクド言い過ぎる難があるが、不思議に失明については思切《おもいきり》が宜《よ》かった。『回外剰筆』の視力を失った過程を述ぶるにあたっても、多少の感慨を洩らしつつも女々しい繰言を繰り返さないで、かえって意気のますます軒昂たる本来《もちまえ》の剛愎が仄《ほの》見えておる。
全く自ら筆を操る事が出来なくなってからの口授作《くじゅさく》にも少しも意気消沈した痕が見えないで相変らずの博引旁証《はくいんぼうしょう》をして気焔を揚げておる。馬琴の衒学癖《げんがくへき》は病《やまい》膏肓《こうこう》に入《い》ったもので、無知なる田夫野人《でんぶやじん》の口からさえ故事来歴を講釈せしむる事が珍らしくないが、自ら群書を渉猟する事が出来なくなってからも相変らず和漢の故事を列《なら》べ立てるのは得意の羅大経《らたいけい》や『瑯※[#「王+邪」、第3水準1−88−2]代酔篇《ろうやたいすいへん》』が口を衝《つ》いて出《い》づるので、
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