八犬伝談余
内田魯庵

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)忙《いそが》しく

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大抵|潰《つぶ》され

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(例)※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]
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       一 『八犬伝』と私

 昔は今ほど忙《いそが》しくなくて、誰でも多少の閑《ひま》があったものと見える。いわゆる大衆物はやはり相応に流行して読まれたが、生活が約《つま》しかったのと多少の閑があったのとで、買うよりは貸本屋から借りては面白いものは丸写しか抜写しをしたものだ。殊に老人のある家では写本《しゃほん》が隠居仕事の一つであったので、今はモウ大抵|潰《つぶ》されてしまったろうが私の青年時代には少し旧《ふる》い家には大抵お祖父《じい》さんか曾祖父《ひいじい》さんとかの写本があった。これがまた定《きま》って当時の留書《とめがき》とかお触《ふれ》とか、でなければ大衆物即ち何とか実録や著名《なだい》の戯作《げさく》の抜写しであった。無論ドコの貸本屋にも有る珍らしくないものであったが、ただ本の価を倹約するばかりでなく、一つはそれが趣味であったのだ。私の外曾祖父《がいそうそふ》の家にも(今では大抵屏風の下貼や壁の腰張やハタキや手ふき紙になってしまったが)この種の写本が本箱に四つ五つあった。その中に馬琴の『美少年録』や『玉石童子訓《ぎょくせきどうじくん》』や『朝夷巡島記《あさいなしまめぐりのき》』や『侠客伝』があった。ドウしてコンナ、そこらに転がってる珍らしくもないものを叮嚀に写して、手製とはいえ立派に表紙をつけて保存する気になったのか今日の我々にはその真理が了解出来ないが、ツマリ馬琴に傾倒した愛読の情が溢《あふ》れたからであるというほかはない。私の外曾祖父というは決して戯作好《げさくず》きの方ではなかった。少し常識の桁《けた》をはずれた男で種々の逸事が残ってるが、戯作好きだという咄《はなし》は残っていないからそれほど好きではなかったろう。事実また、外曾祖父の遺物中には馬琴の外は刊本にも写本にも小説は一冊もなかった。ただ馬琴の作は上記以外自ら謄写したものが二、三種あった。刊本では、『夢想兵衛《むそうびょうえ》』と『八犬伝』とがあった。畢竟《ひっきょう》するに戯作が好きではなかったが、馬琴に限って愛読して筆写の労をさえ惜しまず、『八犬伝』の如き浩澣《こうかん》のものを、さして買書家でもないのに長期にわたって出版の都度々々購読するを忘れなかったというは、当時馬琴が戯作を呪う間にさえ愛読というよりは熟読されて『八犬伝』が論孟学庸や『史記』や『左伝』と同格に扱われていたのを知るべきである。また、この外曾祖父が或る日の茶話に、馬琴は初め儒者を志したが、当時儒学の宗たる柴野栗山《しばのりつざん》に到底及ばざるを知って儒者を断念して戯作の群に投じたのであると語ったのを小耳に挟んで青年の私に咄《はな》した老婦人があった。だが、馬琴が少時栗山に学んだという事は『戯作者六家撰』に見えてるが、いつ頃の事かハッキリしない。医を志したというは自分でも書いてるが、儒を志したというは余り聞かない。真否は頗る疑わしいが、とにかく馬琴の愛読者たる士流の間にはソンナ説があったものと見える。当時、戯作者といえば一括して軽薄放漫なる※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]々者《がいがいしゃ》流として顰蹙《ひんしゅく》された中に単《ひと》り馬琴が重視されたは学問淵源があるを信ぜられていたからである。
 私が幼時から親しんでいた『八犬伝』というは即ちこの外曾祖父から伝えられたものだ。出版の都度々々|書肆《しょし》から届けさしたという事で、伝来からいうと発行即時の初版であるが現品を見ると三、四輯までは初版らしくない。私の外曾祖父は前にもいう通り、『美少年録』でも『侠客伝』でも皆謄写した気根の強い筆豆《ふでまめ》の人であったから、『八犬伝』もまた初めは写したに相違ないが、前数作よりも一層感嘆|措《お》かなかったので四、五輯頃から刊本で揃えて置く気になったのであろう。それからが出版の都度々々届けさしたので、初めの分はアトから補ったのであろう。私の外曾祖父というのは戯作好きでも書物好きでも、勿論学者でも文雅風流の嗜《たしな》みがあるわけでもないただの俗人であったが、以て馬琴の当時の人気を推すべきである。
 このお庇《かげ》に私は幼時から馬琴に親しんだ。六、七歳頃から『八犬伝』の挿絵を反覆して犬士の名ぐらいは義経・弁慶・亀井・片岡・伊勢・駿河と共に諳《そら》んじていた。富山《とやま》の奥で五人の大の男を手玉に取った
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