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馬琴はこれに反して画家の我儘を決して許さなかった。馬琴は初め北斎と結託して馬琴の挿画は北斎が描くを例とした。ところが『弓張月』だったか『水滸画伝』だったかの時、無論酒の上の元気か何かであろう、馬琴の本が売れるのは俺の挿画が巧いからだと北斎が傲語した。さア、馬琴が承知しない、俺の本の挿画を描かせるから人からヤレコレいわれるようになったのを忘れたかと、それぎり二人は背中合せとなった。ドッチも鼻梁《はなっぱり》の強い負け嫌いの天狗同志だから衝突するのは無理はない。京伝だったら北斎に花を持たして奇麗に負けてやったろう。
が、馬琴には奇麗サッパリと譲ってやる襟度《きんど》が欠けていた。奉公人にさえ勘弁出来ないで、些細な不行届《ふゆきとどき》にすら請人を呼び付けてキュウキュウ談じつけなければ腹の虫が慰《い》なかったのだから、肝癖《かんぺき》の殿様の御機嫌を取るツモリでいるものでなければ誰とでも衝突した。一つは馬琴の人物が市井《しせい》の町家の型に適《はま》らず、戯作者仲間の空気とも、容れなかったからであろう。馬琴が蒲生君平《がもうくんぺい》や渡辺|崋山《かざん》と交際したのはそれほど深い親密な関係ではなかったろうが、町家の作者仲間よりはこういう士人階級の方がかえって意気投合したらしい。が、君平や崋山としばしば音信した一事からして馬琴に勤王の志があったと推断するのは馬琴贔屓が箔をつけようための牽強説である。ツイこの頃も或る雑誌で考証されていたが、こういう臆断は浪花節《なにわぶし》が好きだから右傾、小劇場の常連だから左傾と臆測するよりももっと早呑み込み過ぎる。
六 『八犬伝』の人物咏題
が、馬琴の人物がドウあろうとも作家として日本が産み出した最大者であるは何人も異議を挟むを許されない公論である。『八犬伝』がまた、ただに馬琴の最大作であるのみならず、日本にあっては量においても質においても他に比儔《ひちゅう》するもののない最大傑作であるは動かすべからざる定説である。京伝・馬琴と便宜上並称するものの実は一列に見難いものである。沙翁《シェイクスピア》は文人として英国のみならず世界の最大の名で、その作は上下を通じて洽《あまね》く読まれ、ハムレットやマクベスの名は沙翁の伝記の一行をだも読まないものにも諳《そら》んぜられている。日本で沙翁と推されるのは作物の性質上|近
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