密につけた日記に来客と共に愉快そうに談笑した記事が殆んど見えない。家族と一緒に遊びに出掛けたはおろか、在宿して団欒《だんらん》の歓楽に興じた記事もまた見えない。馬琴は二六時中、操觚《そうこ》に没頭するか読書に耽るかして殆んど机に向かったぎりで家人と世間咄一つせず、叱言をいう時のほかは余り口を利かなかったらしい。
 家人に対してさえこれだからましてや他人に対してお上手をいうような事はなかった。『蜘蛛の糸巻』に、恩人の京伝の葬式には僅かばかりの香料を包んで代理に持たせて自分は顔を出さなかったくせに、自分が書画会をする時には自筆の扇子《せんす》を持って叩頭《おじぎ》に来たと、馬琴の義理知らずと罵っている。が、葬式の一条はともかく、自分の得《とく》になっても叩頭をする事の大嫌いな馬琴が叩頭に来たというは滅多にない珍らしい事だ。ツマリ世渡り下手《へた》で少しもお上手を知らなかったので、あながち義理知らずばかりでもなかった。
 ひと口にいうと馬琴は無調法者だった。口前《くちさき》の上手な事をいうのは出来なかったよりも持前の剛愎が許さなかった。人の感情を毀《こわ》すナゾは余り問題にしなかったから、人と衝突するのは馬琴の生涯には珍らしくなかった。これにつき京伝と馬琴との性格の差を現わす一例がある。京伝もまた相当な見識を具えてひと癖もふた癖もあったが、根が町家生れで如才なく、馬琴と違って酸《す》いも甘いも心得た通人だったから人をそらすような事は決して做《し》なかった。『優曇華《うどんげ》物語』の喜多武清《きたぶせい》の挿画が読者受けがしないで人気が引立たなかった跡を豊国《とよくに》に頼んで『桜姫全伝』が評判になると、京伝は自分の作が評判されるのは全く挿絵のお庇《かげ》だと卑下して、絵が主、作が従だと豊国を持上げ、豊国絵、京伝作と巻尾の署名順を顛倒《てんとう》さした。事実、臭草紙は勿論、読本《よみほん》にしても挿絵の巧拙善悪が人気に関するが、独立した絵本と違って挿画は本文に従属するのみならず図柄の意匠配置等は通例作者の指揮に待つを常とするから画家は従位にあって主位に居るべきものではない。豊国の似而非《えせ》高慢が世間の評判を自分の手柄に独占しようとするは無知な画家の増長慢としてありそうな咄だ。が、京伝は画工《えかき》が威張りたいなら威張らして置いて署名の順位の如きは余り問題にしなかった
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