二十五年間の文人の社会的地位の進歩
内田魯庵
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)壟断《ろうだん》せられ、
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)旧|旗幟《きし》を撞砕した
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、読みは「みは」、179−16]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)広い/\
−−
二十五年という歳月は一世紀の四分の一である。決して短かいとは云われぬ。此の間に何十人何百人の事業家、致富家、名士、学者が起ったり仆れたりしたか解らぬ。二十五年前には大外交家小村侯爵はタシカ私立法律学校の貧乏講師であった。英雄広瀬中佐はまだ兵学校の寄宿生であった。
二十五年前には日清、日露の二大戦役が続いて二十年間に有ろうと想像したものは一人も無かった。戦争を予期しても日本が大勝利を得て一躍世界の列強に伍すようになると想像したものは一人も無かった。それを反対にいつかは列強の餌食となって日本全国が焦土となると想像したものは頗る多かった。内地雑居となった暁は向う三軒両隣が尽く欧米人となって土地を奪われ商工業を壟断《ろうだん》せられ、総ての日本人は欧米人の被傭者、借地人、借家人、小作人、下男、下女となって惴々焉憔々乎として哀みを乞うようになると予言したものもあった。又雑婚が盛んになって総ての犬が尽く合の子のカメ犬となって了ったように、純粋日本人の血が亡びて了うと悲観した豪《えら》い学者さえあった。国会とか内地雑居とかいうものが極楽のように喜ばれたり地獄のように恐れられたりしていた。
二十五年前には東京市内には新橋と上野浅草間に鉄道馬車が通じていたゞけで、ノロノロした痩馬のガタクリして行く馬車が非常なる危険として見られて「お婆アさん危いよ」という俗謡が流行った。電灯が試験的に点火されても一時間に十度も二十度も消えて実地の役に立つものとは誰も思わなかった。電話というものは唯実験室内にのみ研究されていた。東海道の鉄道さえが未だ出来上らないで、鉄道反対の気焔が到る処の地方に盛んであった。
二十五年前には思想の中心は政治であった。文学が閑余の遊戯として
次へ
全11ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内田 魯庵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング