見られていたばかりでなく、倫理も哲学も学者という小団体の書斎に於ける遊戯であった。科学の如きは学校教育の一課目とのみ見られていた。真に少数なる読書階級の一角が政治論に触るゝ外は一般社会は総ての思想と全く没交渉であって、学術文芸の如きは遊戯としての外は所謂聡明なる識者にすら顧みられなかった。
 二十五年前には文学士春の屋朧の名が重きをなしていても、世間は驚異の目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、読みは「みは」、179−16]って怪しんだゝけで少しも文学を解していなかった。議会の開けるまで惰眠を貪るべく余儀なくされた末広鉄腸、矢野竜渓、尾崎咢堂等諸氏の浪花節然たる所謂政治小説が最高文学として尊敬され、ジュール・ベルネの科学小説が所謂新文芸として当時の最もハイカラなる読者に款待やされていた。
 二十五年前には外山博士が大批評家であって、博士の漢字破りの大演説が樗牛のニーチェ論よりは全国に鳴響いた。博士は又大詩人であって『死地に乗入る六百騎』というような韻文が当時の青年の血を湧かした。
 二十五年前には琴や三味線の外には音楽というものが無かった。オルガンやヴヮイオリンは学校の道具であって、音楽学校の養成する音楽者というは『蛍の光』をオルガンで弾く事を知ってる人であった。音楽会を開いて招待しても嘆願しても聞きに来る人は一人も無かった。
 二十五年前には日本の島田や丸髷の目方が何十匁とか何百匁とかあって衛生上害があるという理由で束髪が行われ初め、前髪も鬢も髦《かもじ[#ママ]》も引詰めて小さく結んで南京玉の網を被せたのが一番のハイカラであった。
 二十五年前には「国民之友」が漸く生れたばかりで、徳富蘇峰氏が志賀、三宅両氏と共に並称せられた青年文人であった。硯友社は未だ高等学校内の少年の団体であって世間に顔出ししてなかった。依然として国文及び漢文が文学の中堅として見られていた。
 二十五年前には今の日比谷の公園の片隅に、昔の大名の長屋の海鼠壁や二の字窓が未だ残っていた。今の学者町たる本郷西片町は開けたばかりで広い/\原の彼地此地にポツポツ家が建ち初めた。西片町の下の植物園の近所には田があった。東京の到る処に昔の江戸の残り物があった。
 二十五年は顧みると早いようだが、中々長い歳月である。大抵な大事業は計劃せられ、実行せられ、終結せられて十分余りある。昔の悠長な時
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