た。
スチュヂオやアート・ヂャーナルの増刊やマイステル・デア・ファーベや其他各種の美術書は凡そ一千部以上も焼燼した。こんなものは註文すればイクラでも得られる、焼いても惜しくないと云えば云うようなものであるが、日本では欧羅巴に数千部を頒布する是等の普通の美術雑誌でさえも帳中の秘書として珍襲する美術家又は鑑賞家の甚だ少からぬを思い、更にこんな平凡普通なものをすら知らずに美術を談ずる者がヨリ一層少からざるを思うと、恁んなものでも灰となって了ったを亦頗る惜まざるを得ない。
余は屡々人に話した。倫敦タイムズ社が売った数千部のブリタニカやセンチュリー大辞典はツンドク先生の客間や質屋の庫に埋もれて了ったと、賢しら顔して云う人もあるが、客間の粧飾となっていようと質屋の庫に禁錮されていようと、久しい間には誰かゞ読む。一人が読めば一人だけを益する。ツマリ数千部のブリタニカやセンチュリーが日本に広がったは夫だけ日本の公衆の平均知識を増したわけである。
日本では夜肆《よみせ》で外国の古新聞古雑誌の挿画を売っている。其の多くはロンドン・ニュースやグラフフ※[#「※」は「ヰ」の小書き、157−14]ック、パックやウォッヘの切抜で下らぬものばかりである。こんなものさえ大切にスクラップ・ブックへ貼付けて珍重する日本では、残念ながら猶だ/\当分の中は外国書籍のお庇を蒙らねばならない。此種の美術書の焼失は金銭の問題では無い。金子《かね》さえ出したら絶対に買えないものは無いだろうが、一冊でも多く外国書籍を普及したい日本では、縦令再び同じものを得られるとしても、焼けたものは矢張日本の文化の損失である。
と心窃に感慨しつゝ、是等の大美術書を下駄で踏むのがアテナの神に対して済まないような気持がしながら左見右見《とみこうみ》としていると、丸善第一のビブリオグラアーたるKが焼灰で真黒になった草履穿きで煙の中を※[#「※」は「ぎょうにんべん+尚」、第3水準1−84−33、158−5]※[#「※」は「ぎょうにんべん+羊」、第3水準1−84−32、158−5]いつゝ、焼けた材木や煉瓦をステッキで堀[#ママ]返しては失われた稀覯書の行衛を尋ねていた。
『ドウダネ、堀[#ママ]出し物でもあるかネ?』
『何にもありません。悉皆焼けて了いました、』とKは力の抜けた声をして嘆息を吐いた。
『シーボルトは?』
『焼けて了いました。』
シーボルトの名は日本の文明の起源に興味を持つものは皆知ってる筈である。葡萄牙《ポルトガル》のピントー以来日本に渡来した外人は数限りも無いが、真に学者として恥かしからぬ造詣を蓄えて、学術研究の真摯《まじめ》な目的を抱いて渡来し、大にしては世界の学界に貢献し、小にしては日本の文明にも亦寄与したものはシーボルト一人であった。シーボルトが若し渡来しなかったら、日本の蘭学や本草学はアレ程に発達しなかったであろうし。又日本の動植物や特殊の文明も全然欧洲人に理解されていなかったであろう。其のシーボルトの『日本動植物譜』は特に我が文明の為に紀念すべき書たるに留まらず、古今の博物書中の大著述の一つで、殊に日本に関する博物書としては今猶お権威を持ってる名著である。且初版以後一度も覆刻されなかった故、今日では貴重な稀覯書として珍重されて、倫敦時価一千円以上である。且又其価は年々騰貴するから、幾年後には何千円を値いするようになるかも計られない。日本では、伊藤圭介翁の遺書が大学の書庫に収められてる筈であるが、其外に恐らく五部と無いものであろう。
此のシーボルトの『動植物譜』は先年倫敦の某稀覯書肆から買入れたのが丸善の誇りの一つであったが、之が焼けて了ったのだ。
『片無しかネ?』
『片無しでもありません。今、其処で植物《フロラ》を発見《みつ》けましたが、動物《ファウンナ》が見付かりません。』
と、Kがステッキで指さすを見ると、革の表紙が取れて、タイトル・ページが泥塗れになったシーボルトが無残に黒い灰の上に横たわっていた。が、断片零紙も惜むべき此種の名著は、縦令若干の焼け損じがあっても、一部のフロラが略ぼ揃える事が出来たなら猶お大に貴重するに足る。之を尽く灰として了わなかったは有繋《さすが》の悪魔の猛火も名著を滅ぼすを惜んだのであろう。
『リンスホーテンもこんなになって了いました、』とKは懐ろからバラ/\になった焼焦だらけの紙片を出して見せ、『落ちてたのを之だけ拾って来ました。』
リンスホーテンの『東印度旅行記』――原名を"Navigatio ac itinerarivm"と云い、一五九九年ヘーゲの出版である。比の貴重なる初版が日本の図書館に有る乎無い乎は疑問である。
『ジェシュートの書翰集は?』
『あれは無論駄目です。あの棚のものは悉皆焼けて了いました。』
此書翰集こそ真に
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