惜むべき貴重書であった。原名を"Cartas que los padres y hermaos de la Compania de Iesus, que andan en los reynos de Iapon"と云い、日本に在留したザビール初めアルメイダ、フェルナンデス、アコスタ等エズイット派の僧侶が本国に寄せた天文十八年(エズイット派が初めて渡来した年)から元亀二年(南蛮寺創設後三年)までの通信八十八通を集めたもので、一五七五年即ち天正三年アルカラ(西班牙《スペイン》)の出版である。殊に此書は欧羅巴刊行の書籍中漢字を組入れた嚆矢としてビブリオファイルに頗る珍重される稀覯書である。
 帝国大学の図書室で第一の稀覯書として珍重するは所謂"Jesuit press"と称する是等のバテレンが本国へ送った通信であって、蒐集の量も又決して少く無いから、或は此書翰集も大学に収蔵されてるかも知れないが、大学を外にしては日本では他の図書館或は蒐集家の文庫に此稀覯書を発見し得る乎怎う乎、頗る掛念である。
 丸善は新書の供給を旨としておる。無論、日本では猶だ外国の稀覯書を珍重するほどの程度に達していないから、此の如き稀覯書を外国から仰いで積んで置く事は出来無いが、猶且容易に手に入れる事の出来ない此種の珍本も数十点あった。之が皆灰となって了った。
 稀覯書というでは無いが、ベンガルの亜細亜協会の雑誌(一八三二年創刊?)の第一号から一九〇五年分までが揃っていた。亜細亜協会は東洋各地に設立されてるが、就中ベンガルは最も古い創立で、他の亜細亜協会の雑誌よりもヨリ多く重要なる論文に富み、東洋殊に印度学の研究の大宝庫として貴重されておる。其価は金一千二百円で、雑誌としては甚だ不廉のようであるが、七十四年間の雑誌を揃えるは頗る至難であって、仮令二千円三千円を出した処で今日直ちは揃え得られるものでは無い。僅か十年かそこらの日本の雑誌ですらも容易に揃えられないのは雑誌を集めた経験ある人には能く解る。況してや七十四年間の外国雑誌は長い間に何度も繰返して重複したものを買集めなければ揃えられないので、恐らく此雑誌も全部揃ったは日本に幾何も無いであろう。之が尽く灰となって了った。
『目録も焼けたろうネ?』
『焼けました。あれが焼けて了ったのが一番残念です、』とKは愈々憮然たる顔をした。
 目録というは売品では無い。営業上の参考書である。が、丸善が最も誇るべきものゝ一つは此外国の各種の目録で、Kが専ら其衝に当って前後十何年の丹精を費やした努力の賜であった。
 図書館の設備と書店の用意とは自ずから異なってるから、丸善に備えつけた目録を図書館に需めるは不当であろうが、日本の普通図書館には求められない特殊の外国書目が丸善には準備されているのだ。尤も書肆であるから学術上の貴重なる書目を尽く揃えていたわけでは無いが、試に其の一つ二つを云えば、Heinsius "Bucher−Lexicon"が一七〇〇年から一八九二年まで二百年間尽く揃っていた。ロレンツの仏蘭西書目が一八四〇年から今月まで六十年間全部揃っていた。レイボールドの『米国書目』は米国書目中の貴重書として珍重されて時価著るしく騰貴しているが、此の貴い書目も丸善の誇りの一つであった。学術上から云ったら余り貴くないかも知れぬが左に右く恁ういう日本には珍らしい書目が十数種あった。
 現行書目にしも、英独仏露伊西以外、和蘭、瑞西、波蘭、瑞典、那威、澳太利、匈牙利、葡萄牙、墨西哥、アルゼンチン、将た印度、波斯、中央亜細亜あたりまでの各国書目を一と通り揃えていた。無論日本の分類書目的の普通目録であるが、恁ういう交通の少ない国の書目は最も普通のものでも猶お珍奇とするに足る。
 其他各国大学又は図書館協会或は学会等、及びクワーリッチ、ヒールセマン等英仏独蘭の稀覯書肆から出版した各種の稀覯書目録[#以下の括弧内割注](欧羅巴の稀覯書肆の特別刊行の書目は細密なる分類を施こし且往々解題を加え或はファクシミルを挿入する故書史学者の参考として最も珍重すべきものである。)が数百種あった。凡そ是等の特種書目は三百部乃至五百部を限るゆえ再び之を獲る事は決して出来ないのだ。
 無論、是等の書目の多くは日々の営業上必要なものでなく、大抵高閣に束ねて滅多に参考する事は無いが、外国書籍の知識を得る為めには絶好の資料であった。我々が外国古文学又は特殊の書籍又は稀覯書等に就て知らんとするに方って普通の目録や書籍歴史では決して得られない知識を探り得られる是等の含蓄多き貴重なる書目の滅亡は真に悲むべきであった。
 Kと一緒に暫らく灰燼の中を左視右顧しつゝ悵然《ちょうぜん》として焼跡を去りかねていた。
 四壁の書架は尽く焼燼して一片紙の残るものだに無かった。日本の思想界を賑わした
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