分は巴黎の「リブレール・ド・ボザール」や「デューシエ」や独逸の「ヘスリンク」から此頃新着したばかりのもので、各種の図案粧飾、又は名画彫塑の複製帖等、何れも精巧鮮美、目も覚めるようなものばかりであった。其価を云えば廉なるも二十円三十円、高価なるは百五十円二百円というものであった。是れだけの図案美術書類は、今日の日本には普通の図書館は勿論美術専攻の如何なる研究所にさえ揃っていないと断言して宜かろう。
ツイ此頃の新着だから、尚だ尽く目を通していなかったが、デュポン・トーベルヴ※[#「※」は「ヰ」の小書き、156−1]ルの名物織物譜や、巴黎で新らしく出版された日本の織物帖、ビザンチンの美術大観、某々名家の蒐集した画※[#「※」は「月」+「卷」の下に代えて「貝」」、第3水準1−92−27、156−3]《がよう》等、其製版摺刷の精妙巧緻は今猶お眼底に残って忘れられない。
其中には又クラインマンのアッシリア壁画の帖があった。スタインの和※[#「※」は「門がまえ+眞」、第3水準1−93−54、156−4]《コータン》発堀[#ママ]の報告があった。前者はアッシリアの浮雕《レリーフ》を撮影した全紙の玻璃版で、極めて緻密なる細部の雕刻までを鮮明に現わして殆んど実物を髣髴せしめた。後者は印度文明の揺籃地に関する最新の発見報告であって、其発堀せる遺物の精巧なる写真数十葉は何れも皆東洋芸術の根本資料として最も貴重なるものである。此の二つは必ずしも二度と得られないというものでは無いが、彼程の立派な研究資料をムザ/\と焼いて了ったは如何にも残念であった。
其中には又ヴヮンダイクの著名なエチングの複製画があった。[#以下の括弧内割注](価は四百円であった。)英国印刷界を驚倒したメヂチ版の複製画があった。ニコルソンの飄逸な筆に成った現代文豪の肖像画等があった。新らしいものではあるが、是等は大抵多数に頒つを目的としないで、三百乃至五百、中には僅に五十部乃至百部を限った出版もあるゆえ、其中には二度と再び得られないものもあった。
之が皆焼けて了った。数十部の画帙画套が恰も一本の棟木のように一つに固まって真黒に焼けて了った。世界の大美術書の総数に比べたなら九牛の一毛どころか百牛の一毛にも当るまいが、シカモ世界の文献に乏しい日本では此の百牛の一毛なり万牛の一毛なりの美術書でさえが猶お貴重せざるを得なかっ
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