うにも多少の注意を要するが、厳ましく云つて禁止する必要は少しも無いのだ。
 夫れに就て、前にも日本の家庭には書斎が無い家が多いと云つたが、主人公の書斎は左も右くもとして一家に四畳半なり六畳なりを仕切つて周囲に書棚を置き書棚の上には一家の何人が読んでも興味もあり利益もある書籍を列べ、壁には教育的、歴史的、倫理的若くは理化学的の有用なる図でも掛けて置いて一家共有の読書室としたらドウだらう。西洋人の家庭(中流以上の)には恁ういふ設備をした室が必ずある、近頃も独逸の――ツイ名を忘れたが――或る美術家の家庭に光明を与へよといふ画帖を見たが、恁ういふ読書室に一家が団欒してゐる図があつた。且此画帖を見て感服したのは、例へば主婦が台処仕事をしてゐながらも書物を見てをる、児童が庭に出て遊んでゐるにもポケツトに書物を入れてある。ツマリ独逸人の眼から見れば、家庭の幸福と書籍とは離れぬ縁なのだ。
 マア考へても見給へ、一家の主婦同士が集まつて、他人の贅沢を羨ましがつたり妬たんだりするやうな、或は自分の栄耀を衒つたり、誇つたりするやうな咄や、姑や小姑の讒訴や余処の奥さんの瑕瑾捜しや、でなければ茄子や南瓜の相場や、こんな話をするのと、新らしい芸術か文学の咄をするのと、ドツチが品格が宜からう。
 私は、直言する。女同士の咄を聞いてゐると、大抵な女には愛想が尽きる。女の覚醒とか解放とか何とか、御大層な事をいふが、他人の瑕瑾捜しや贅沢咄や姑や小姑の讒訴を止めない中は女は決して其品性を誇る事は出来ぬ。又茄子や南瓜が女の口の一天張の主題である内は女の知識の劣等なる事を決して否む事は出来ぬ。
 自覚よりも解放よりも先づ第一に女は読書しなければならぬ。無論、男からして先きへ立つて読書しなければならんが、家庭の咄だから女に対して云ふのだ。
 常に読書してゐれば話題が自づから富んで来る、他人の瑕瑾ばなしなぞしないでも済む。贅沢の自慢や羨ましがりなんぞは馬鹿々々しくなる、一と口に云へば女がもう少しエラクなる。
 一体女は用が無いものだ、家庭の用事なんぞは大した忙がしいもんでは無い。勿論児童が五人も六人もあれば少しは児童の世話をしなければならぬが、夫婦差向ひの家庭、殊に植民地あたりの家庭は先づ用が無いものだ。用が無いから、ソコデ小人閑居して不善を為す、男にも小人は多いが、女には男よりも更に一層小人が多い、碌な事をし
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内田 魯庵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング