、三越で揃へたやうなケバ/\しいものが沢山陳んで、遺憾なく成金を発揮してゐるが、眼目の書棚に列んでる書物は神田か本郷の夜店で揃ひさうなものばかりで、数は五六十冊、値踏みをしたら三四十円のものだ。そんなものを列べて書斎で候も呆れて了ふ。
夫れでも三四十円、五六十冊の書物のあるのは感心なので、中には一冊の書物も無い家がある。学校へ通ふ児童の本箱の外には本箱が一つも無い家がある。恁ういふ心掛では、書物を読まなくても頭脳が活溌に働く若い時代は好いが、三十となり四十となればドシ/\時代に遅れて了ふ。
主人公さへ多くは此通りの不読書家揃ひだから、多くの家庭が書籍に遠ざかつて自づと時代に遅れるのは無理はない。
世の中の父兄、先輩、教育家、道徳先生、皆多くは読書の習慣の無い時代に育つたのだ。不読書の遺伝の抜け切れない先生たちだ。夫故に子弟たち若い者を戒めて兎角に学校の教課書以外の書物を読んではならぬと厳重に叱りつけて、読書するのを酒を飲んだり女に耽つたりするのと同様の悪事と心得てる。世の中に悪い書物といふものも無いでは無い。が、書物には限らず、総てのものが皆絶対に善いものも無い代りに絶対に悪いものも無い。善いものゝ中から悪いものを棄て、悪いものゝ中から善いものを拾ふのが人間の見識であつて、此見識を養つて悪いものゝ悪化を受けないやうな堅固な頭脳を作るのが父兄なり先輩なり教育家なり道徳家なりの若いものや後輩に対する任務である。然るに偶さか百冊に一冊か千冊に一冊かある悪書に恐れて、教課書以外の書物を読んではならぬなどゝいふは所謂羹に懲りて膾を吹くの類である。
世の父兄や教育家輩が所謂悪書と云つて恐れるのはドンナ書物を指すのか、之に就て多少云ひたい事もあるが、之は後廻しとして、左に右く日本の公衆はまだ/\読書の量が乏しい。勿論読書といふものは直接世渡りの足しにもならず、金儲けの手段にもならぬから、知識慾も精神上の昂上心も無い先生たちは一向不自由をしない。加之ならず自分達が利慾的盲動や何よりも好きな不善の快楽を攻撃されるのが読書子側だから何となしに読書家を煙たがる。児童を教育するにつけても、学校を卒業させて月給に有附かせる外には望みは無いから、学校の教課書さへ読んでればいゝやうに思つてゐる。教課書以外の書物を読むのは試験の邪魔になると思つて厳ましく叱言を云ふ。
一体此試験といふ奴が
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内田 魯庵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング