の首領ケア・ハーデーが日本に来遊して、我々の集会で演説したりしたが、片山君らはすなわちそのハーデー(ハーディー)派であり、わたしなどはそれに対するハインドマン派(社会民主同盟派)の形であり、幸徳君らは右の両派を合わせて国家社会主義に片づけようとするクロポトキン派(もしくはバクニン派)であった。当時まだサンヂカリズム(サンジカリズム)の名はほとんど現われていなかった。石川三四郎君らは右の三派(もしくば二派)から独立して、婦人運動の雑誌を出したりしていた。
 しかしわたしは、実際上には幸徳君らと密接に提携していた。わたしは大阪平民新聞の執筆者の一人であった。世間の新聞などでは、幸徳君らとわたしらとを一まとめにして柏木団(かしわぎだん)と呼んだりしていた。実際その連中の多くは柏木、淀橋あたりに住んでいて、それが一団となって金曜会というを作り、毎週神田で講演会をやったりしていた。硬派、軟派という言葉も、当時よく使われていた。それでわたしはある時、田添君から長文の手紙をもって、激しく(しかしながら親切に)非難されたことがあった。それは、わたしが、主義主張によって進退せず、友人関係によって離合して
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