が預かり物でないことを知っていた。思うに父は、私らに対して、望むだけの本など買ってやらないのだから、自分の娯楽のために金を費すことを遠慮したのだろう。しかし私は、それについて何も言ったことはないし、ただむしろ父の遠慮に対して好い感情を持っていた。
 父の俳句に「夕立の来はなに土の臭ひかな」というのがある。これなどは豊津の生活の実景で、初めてそれを聞いた時、子供心にもハハアと思った。豊津の原にはよく夕立が来た。暑い日の午後、毎日のように極《きま》ってサーッとやって来るのが、いかにもいい気持だった。そしてその夕立の来はなに、大粒の奴がパラ/\パラ/\と地面を打つ時、涼気がスウーッと催して来ると同時に、プーンと土の臭いが我々の鼻を撲《う》つのであった。「かんざしの脚《あし》ではかるや雪の寸」などというのも、私の子供心には別だん艶《えん》な景色とも思わず、ただ眼前の実景と感じていた。「百までも此の友達で花見たし」「菜の花や昔を問へば海の上」「目に立ちて春のふえるや柳原」などいうのも覚えている。系統としては美濃派だとか、支考派だとか言っていた。しかし父の主張としては、「俺はもげた[#「もげた」に
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