私の父
堺利彦

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)疱瘡《ほうそう》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)堺|得司《とくじ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)たしなみ[#「たしなみ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)パラ/\パラ/\
−−

 私の覚えている父は既に五十であった。髪の毛などは既にやや薄くなっていたように思う。「何さよ気分に変りは無いのじゃがなア」などと、若やいだようなことを言うていることもあったが、何しろ私の目には既に老人であった。名は堺|得司《とくじ》。
 父の顔にはかなり多く疱瘡《ほうそう》の跡があった。いわゆるジャモクエであった。しかしその顔立ちは尋常で、むしろ品のよい方であった。体格は小柄で、しかも痩せぎすであった。サムライのたしなみ[#「たしなみ」に傍点]としては、剣術よりも多く柔術をやったらしい。弓も少しは引いたらしい。喘息持ちでずいぶん永く寝ていることもあったが、ズット年を取ってからは直っていた。そういう体質上、力わざはあまりしなかったが、元来が器用なたち[#「たち」に傍点]で、よく大工の真似をやっていた。大工道具はすっかり揃っていて、棚を釣る、ひさし[#「ひさし」に傍点]を拵えるくらいのことは、人手を借らずにズンズンやっていた。
 学問はない方の人で、四書の素読くらいはやったのだろうが、ついぞ漢学なり国学なりの話をしたことがなかった。ただ俳諧は大ぶん熱心で、後には立机《りっき》を許されて有竹庵|眠雲《みんうん》宗匠になっていた。『風俗|文選《もんぜん》』などいう本をわざわざ東京から取寄せて、幾らか俳文をひねくったりしたこともあった。碁もかなり好きだし、花もちょっと活けていた。私も自然、その三つの趣味を受けついでいる。花の方は、別だん受けついだというほどでもないが、「遠州流はどうもちっと拵えすぎたようで厭じゃ。俺の流儀の池の坊の方がわざとらしゅう無《の》うてええ」というくらいの話を聞いている。そういうことは多少、私の処世上の教訓にもなったような気がする。碁について一つおかしいことがある。初めて私の家に碁盤が運びこまれた時、父はそれを余所《よそ》からの預かり物だと言っていた。しかし私らは、いつの頃からか、決してそれ
次へ
全7ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堺 利彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング