が預かり物でないことを知っていた。思うに父は、私らに対して、望むだけの本など買ってやらないのだから、自分の娯楽のために金を費すことを遠慮したのだろう。しかし私は、それについて何も言ったことはないし、ただむしろ父の遠慮に対して好い感情を持っていた。
 父の俳句に「夕立の来はなに土の臭ひかな」というのがある。これなどは豊津の生活の実景で、初めてそれを聞いた時、子供心にもハハアと思った。豊津の原にはよく夕立が来た。暑い日の午後、毎日のように極《きま》ってサーッとやって来るのが、いかにもいい気持だった。そしてその夕立の来はなに、大粒の奴がパラ/\パラ/\と地面を打つ時、涼気がスウーッと催して来ると同時に、プーンと土の臭いが我々の鼻を撲《う》つのであった。「かんざしの脚《あし》ではかるや雪の寸」などというのも、私の子供心には別だん艶《えん》な景色とも思わず、ただ眼前の実景と感じていた。「百までも此の友達で花見たし」「菜の花や昔を問へば海の上」「目に立ちて春のふえるや柳原」などいうのも覚えている。系統としては美濃派だとか、支考派だとか言っていた。しかし父の主張としては、「俺はもげた[#「もげた」に傍点]句が好きじゃ」と言っていた、もげた[#「もげた」に傍点]とは奇抜を意味する。ついでに少し後のことだが、私はある時、父から俳句で叱られた。「我が顔の皺を見て置け年の暮」これには実際ギクリと参った。
 これも後に、「明月や畳の上の松の影」という古人の句を初めて見た時、なるほどハハアと、私は心の中で手を打った。曾てその通りの景色が豊津の家にあった。そしてそんな時、火を消してその月影の間に寝ころぶと言ったような趣味を、自然に父から養われていたのであった。
 しかし父の最も得意とするところは、野菜つくりであった。私が今、私の少年時代における父の姿をしのぶ時、それは炬燵《こたつ》にあたっている姿か、さもなくば畑いじりの姿である。ことに、越中褌一つで、その前ごをキチンと三角にして、すっぱだかで菜園の中に立っている姿が、今も私の目の前に浮ぶ。五日に一度くらい働きにくる小六という若い百姓男を相手にして、父はあらゆる野菜物を作っていた。大根、桜島、蕪菜、朝鮮芋(さつま芋)、荒苧《あらお》(里芋)、豌豆《えんどう》、唐豆(そら豆)、あずき、ささげ、大豆、なた豆、何でもあった。茄子《なす》、ぼうぶら(か
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