二個の半球に切り割かれた時、「ほう! 見事じゃのう!」と父がサモ嬉しそうな感嘆の声を発する。その中、半球がさらに二つに割かれて、ザクリ、ザクリ、赤い山形が続々と切り出される。私らは物をも言わずに、いきなりそれにかじりつくのであった。ただ一つ私の不満で堪らないのは、父母が馬鹿に念を入れた、腹下しの用心からして、ついぞ一度も、思う存分、食わせてくれなかったことである。
 西瓜について一つおかしい話がある。お隣り――と言っても、裏の松山の間の小道を二十|間《けん》ばかりも行った処だが――そのお隣りの中村という家では、どういうものか西瓜を作らない。「あそこの嫁嬢《よめじょう》は西瓜が大好きじゃちゅうのに一度も食べんで気の毒じゃ」と言うので、ある日の西瓜切りの時、母がその嫁嬢を呼んで来た。嫁嬢は大喜びで散々食べて行った。ところが、その嫁嬢、ちょうど臨月であったのだが、その晩、急に産気がついた。サア私の内では大心配をした。西瓜が当ったのではあるまいか。もしかそうだとすると申しわけがない。余計のことをせねばよかった! ことに母は、気が気でなく騒いでいた。しかしお産は幸いに無事で、好い女の子が生れたので、西瓜は却って手柄をした。
 父はまた、野菜作りばかりでなく、屋敷内に竹林を作り、果樹をふやし、花物を植えつけ、接穂《つぎほ》をするなど、いろいろ計画を立てて実行した。茶の木も少しあった。煙草の少し作られたこともあった。蓮池の計画もあったが、これは実現されなかった。珍しい物としては、甘茶の木だの、三叉《みつまた》の木などがあった。桑の木のことは、後に記す。
 父は煙草も好き、酒も好きだった。晩酌の一合ばかりを、ちしゃ[#「ちしゃ」に傍点]の葉に味噌をくるんで頬ばったりしながら、ちびちびやるのがよほどの楽しみであったらしい。いよいよ飯の菜や酒の肴《さかな》のない時には、いたら[#「いたら」に傍点]貝か何かに菜漬を入れて、鰹節を少し振りかけて煮るのが父の発明で、それを「煮茎《にぐき》」と呼んでいた。「ただの香物《こうのもの》でも、こうして煮ると皆が好《す》くけえ、これは煮茎じゃのうて煮ずきじゃ」などと言って面白がっていた。
 父は律義《りちぎ》な人であり、正直な人であり、キチンとした、小心の人であった。そして多くの場合、機嫌のよい人であったが、どうかするとかなり不機嫌の時もあった。私とし
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