お手をお組みなされ、暫《しばら》く無言でいらっしゃる、お側へツッ伏《ぷ》して、平常《ふだん》教えて下すった祈願《いのり》の言葉を二た度三度繰返して誦《とな》える中《うち》に、ツートよくお寐入《ねいり》なさった様子で、あとは身動きもなさらず、寂《ひっそ》りした室内には、何の物音もなく、ただ彼《か》の暖炉《だんろ》の明滅が凄《すご》さを添えてるばかりでした。子供ながらもその場の厳《おごそ》かな気込《きごみ》に感じ入って、佇《たたず》んだままでいた間はどの位でしたか、その内に徳蔵おじが、「奥さまはモウおなくなりなさったから、お暇《いとま》しなければならない、見納《みおさめ》にモウ一度お顔をよく拝《おが》んでおけ」と声を曇らしていいました。僕は死ぬるという事はどういう事か、まだ判然分らなかったのですが、この時大事な大事な奥様の静かに眠っていらっしゃるのを、跡に見てすすり泣きしながら、徳蔵おじに手を引《ひか》れて、外へ出た時、初めて世はういものという、習い始めをしました。
これからあと直《すぐ》に、徳蔵おじはお暇《いとま》を願って、元《も》と出た自分の国へ引込みました。徳蔵おじはモウ年が寄って、故郷《ふるさと》を離れる事が出来ないので、七年という実に面白い気楽な生涯をそこで送り、極《ごく》おだやかに往生を遂《とげ》る時に、僕をよんで、これからは兼て望《のぞみ》の通り、船乗りになっても好《よい》といいました。僕は望が叶《かなっ》たんだから、嬉しいことは嬉しいけれど、ここを離れて行くとなると何だか心残《こころのこり》です。ですが僕はこんなに気楽には見えてもあのように終りまで心にかけて、僕のようなものの行末を案じて下すった奥さまに対して、是非《ぜひ》清い勇ましい人物にならなくッてはならないと、始終考えているんです。
底本:「日本児童文学名作集(上)」岩波文庫、岩波書店
1998(平成10)年6月15日発行第8刷)
入力校正者:浜野 智
1999年2月20日公開
2001年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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