いふのも甚だ當を得てゐない。これは佛法の盛んな頃か何か、或る僧侶たちの考へたこぢつけに相違ないと私は思つた。この鳥の聲はそんな枯れさびれたものではないのである。いかにも哀音悲調と謂つた風の、うるほひのある澄み徹つた聲であるのだ。いかにも物かなしげの、迫つた調子を持つてゐるのである。
 そして佛、法、僧という風に三音をば續けない。高く低くたゞ二音だけ繰返す。その二音の繰返しが十度び位ゐも切々《せつ/\》として繰返さるゝと、合の手見た樣に僅かに一度、もう一音を加へて三音に啼く。それをこぢつけて佛法僧と呼んだものであらう。普通はたゞ二音を重ねて啼くのである。
 たとへば郭公の啼くのが、カツ、コウと二音を重ねるのであるが、あれと似てゐる。然し似てゐるのはたゞそれだけで、その音色の持つ調子や心持は全然違つてゐる。郭公も實に澄んだ寂しい聲であるが、佛法僧はその寂びの中に更に迫つた深みと鋭どさとを含んで居る。さればとて杜鵑の鋭どさでは決してない。言ひがたい圓みとうるほひとを其鋭どさの中に包んでゐる。兎に角、筒鳥にせよ、郭公にせよ、杜鵑にせよ、その啼聲のおほよその口眞似も出來、文字にも書くことが出來る
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