岬の端
若山牧水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)括《くく》つてゐる
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四十|格好《かつかう》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うす/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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細かな地図を見ればよく解るであらう。房州半島と三浦半島とが鋭く突き出して奥深い東京湾の入り口を極めて狭く括《くく》つてゐる。その三浦半島の岬端から三四里手前に湾入した海浜に私はいま移り住んでゐるのである。で、その半島の尖端の松輪崎といふのは私たちの浜からやゝ右寄りの正面に細く鋭く浮んで見ゆる。方角はちやうど真南に当る。また、前面一帯は房州半島で、五六里沖に鋸山や二子山が低く聳え、左手浦賀寄りの方には千駄崎といふ小さな崎が突き出てゐる。だから眼前の海の光景は一寸見には四方とも低い陸地に囲まれた大きな湖のやうで、風でも立たねば全く静かな入江である。それで、奥には横浜あり、東京あり、横須賀があつて、其処へ往来の汽船軍艦が始終出入りしてゐるので、常に沖辺に煙の影を断たず、何となく糜爛《びらん》した、古い入江の感をも与へる。
私の居るのは千駄崎寄りの長さ二三里に亘つた白浜で、松の疎らに靡《なび》いた漁村である。浜に出ると正面に鋸山が見える。続いて目につくのは右手に突き出た松輪崎である。細かくおぼろに霞の底に沈んでゐた時も、うす/\と青みそめた初夏の頃も、常になつかしく心を惹《ひ》いてゐた。一度その崎の端まで行つて見度いとは、早春こちらに移つて来て以来の永い希望であつた。盛夏のころ一月あまりを私は下野信濃の山辺に暮してゐたのであつたが、帰つて来て眺めやつた海面は、いつの間にかすつかり秋になつてゐた。日毎に微かな西風《にし》が吹いて、沖一帯にしら/″\と小さな波が立つてゐる。とりわけて目を引いたのは松輪崎の尖端《とつぱな》に立つてゐる白浪で、西から来る外洋のうねりを受け、際立つて高い浪が真白に打ちあげて、やがては風に散つて其処等を薄々と煙らせてゐる。
其処からずつと脊を引いた岬一帯の輪郭は秋めいた光のかげにくつきりと浮き出て見えて居る。
或日、とりわけて空の深い朝であつた。食後を縁側の柱に凭《よ》つてゐたが、突然座敷の妻を見返つた。
『オイ、俺は今から松輪まで行つて来るよ、いゝだらう。』
『今から?』
とは驚いたが、兼ねて行き度がつてゐるのを知つてゐるので、留めもしなかつた。
『そして、いつお帰り? 今夜?』
『さア、よく解らんが、彼処に宿屋があるといふから気に入つたら一晩か二晩泊つて来やう、イヤだつたら直ぐ帰る。』
幾らか小遣銭を分けて貰つて私はいそ/\と家を出た。風が砂糖黍の青い葉さきに流れて、今日も暑くなりさうな日光がきら/\と砂路に輝いてゐる。
道路を外《そ》れて直ぐ浜に出た。下駄を脱いで手頃の縄に通して提げながら高々と裾を端折つた。波打際の濡砂の上を歩いてゆくと、爪先が快く砂に入つて、をり/\は冷たい波がさアつと足の甲を洗ふ。
今日も風が出てゐた。渚から沖にかけて海はしら/″\とざわめいてゐる。不図目をあげると思ひも寄らぬ方にほんのりと有明月が残つてゐた。沖の波に似た白雲の片々《かけら》が風に流れて、紺深く澄み入つた空の片辺に、まつたく忘れられたものゝやうに懸つてゐる。ア、と思ふ自分の心の底には早や久しく忘れてゐる故郷の山川が寂しい影を投げてゐた。故郷と有明月、何の縁も無さゝうだが、有明月を見るごとにどうしたものか私は直ぐ自分の故郷を思ひ起すのが癖である。渓間の林の間を歩いてゐた自分の幼い姿をすぐ思ひ浮べる。
その朝は何故《なぜ》か渚に漁師の姿が少ないやうであつた。下駄を砂上に引きずりながら、私はこの有明の月をどうがなして一首の歌に詠まうものと夢中になつて苦心した。一里あまり、二里ほども歩いてゆくうちにとう/\その一首も出来ず、雪の様な浜は尽きて真黒な岩の磯が表れた。浪の音が急に高く、岩上に吹く松風の声もあり/\と耳に立つ。兎も角もと私は其処に腰を下した。足の裏がちくちくと痛んでゐる。雲の片《かけら》は次第に消えて白い月影のみいよ/\寂しい。
大概の見当をつけて崖を這ひ上つてみると果して小さな路があつた。今度は下駄を履いて松や雑木の木の間を辿る。ずつと見はるかす左手の海の面がいかにも目新しく眺められて、ツイ磯の深い浪の間には無数の魚が群れて居さうに思はれる。小さな丘を越すと一つの漁村があつた。金田といふ。も一つ越すとまた一
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