つあつた。狭い渓谷みたいな所に二三十戸小さな家が集つてゐる。中に一軒お寺があつて切りに鉦《かね》が鳴つてゐた。風のせゐか、此処の漁師も沖を休んで居るらしく、其処此処に集つて遊んでゐた。小さな茶店に休んでゐると其処にも四五人がゐて、何か戦争の話が逸《はず》んでゐた。村出身の予備後備の軍人の年金の話で、いま一戦争あつて引出されると俺もこれでまた一稼ぎ出来るがなア、何しろ斯う不漁《しけ》ぢア仕様がねえと図太い声を出したのを見るともう五十歳に近い大男であつた。年金を当に戦争に出度がる、耳新しいことを聞くものだと思つた。
 それから暫く嶮しい坂になつて、登り果てた所は山ならば嶺《いただき》、つまりこの三浦半島の脊であつた。可なり広い平地で、薩摩芋と粟とが一杯に作つてある。思はず脊延びして見渡すと遠く相模湾の方には夏の名残の雲の峯が渦巻いて、富士も天城《あまぎ》も燻《いぶ》つた光線に包まれて見えわかぬ。眼下の松輪崎の前面をば戦闘艦だか巡洋艦だか大きなのが揃つて四隻、どす黒い煙を吐いて湾内を指《さ》してゐる。此頃館山港に三十隻からの軍艦が集つて、それから垂れ流す糞便で所の者は大困りだといふ二三日前の誰かの話を不図思ひ出した。その演習も終つていま横須賀に帰つて行く所であらう。斯うして揃つた姿を見てゐると、何とはなしに血の躍る心地がする。松輪への路を訊くと、芋畑の中にゐる爺さんが伸び上つて、その電信柱について行きさへすれば間違ひはないと教へてくれる。なるほどこの丘の脊を通して電信柱が列なつてゐる。そしてその先が小さくなつてゐる。

 やがて柱の行列の尽きる所に来た。なるほど、この電線はこの岬端にある剣崎灯台(土地では松輪の灯台と呼んでゐる)に懸つてゐるものであつたのだ。灯台は今はたゞ白々と厳《いかめ》しい沈黙を守つて日に輝いてゐるのみである。そして附近に人家らしいものも見えぬ。あちこちと見廻してゐると、すぐ眼下の崖下にそれらしい一端が見えて居る。私は勇んで坂を降りて行つた。咽喉も渇き、腹も空いてゐた。
 降りて行つて驚いた事には其処は戸数五十近くの旧い宿場じみた漁村であつた。前に小さな浅さうな入江があつて、山蔭の事でぴつたりと静まつてゐる。一わたり歩いてみた所では宿屋らしい家も見えず、腰かけて休むべき店すら見つからぬ。此処が松輪かと訊くと、左様だといふ。兼ねて想像してゐた松輪には小綺麗な宿屋か小料理屋の二三軒もあつて、何となく明るい賑かな浦町であつた。これは/\と呆れたり弱つたりしたが、何しろ飯を食ふ所がない。宿屋が一軒あつたが客が無いので今は廃めたのだ相だ。それならもう少し歩いて三崎までおいでなさい、これから一里半位ゐのものだと、その漁村の外れの藁葺の家に帰り遅れた避暑客とでも云ふべき若い男が教へて呉れる。窺くともなく窺くと年ごろの痩形の廂髪が双肌ぬぎの化粧の手を止めて此方を見てゐる。その前の鏡台からして土地のものでない。仕方なく礼を言ひながら其処を去つて少し歩くと小さな掛茶屋があつて、やゝ時季遅れの西瓜が真紅に割かれて居る。其処に寄つてこぼすともなく愚痴を零《こぼ》すと、イヤ宿屋はあるにはあるといふ。エ、では何処にあると息込んで問ひ返すと、灯台の向ふ側にいま一ヶ所此処みたいな宿屋があつて其処にさくら屋といふのがあるといふ。いゝ宿屋か、海のそばかと畳みかければ、二階建で、海の側で、夜は灯台の光を真上に浴びるといふ。それではと矢庭に私は立ち上つた。そして教へられた近路を取つて急いだ。これで今夜は楽しく過される。兼ねて楽しんでゐた独りきりの旅寝の夢が結ばれるともう其事ばかり考へて急いだ。前の丘を越え戻つて、灯台の下の磯を目がけて行くと木がくれに二三の屋根が表はれ、やがて十軒あまりの部落に出て来た。先づ目についたはさくら屋といふ看板で、黒塗りのブリキ屋根の小さな軒に懸つてゐる。海のそばといふ私の言葉には直ぐ浪うち際の岩の上にでもそそり立つてゐる所を想像してゐたのであつたが、これは狭い砂浜の隅に建てられたマツチ箱式の二階屋である。再び驚いたが、もう落胆《がつかり》する勇気も無い。私はつか/\とその店頭へ歩み寄つた。
 むく/\肥つた四十|恰好《かつかう》の内儀《おかみ》が何だか言つてゐるのを聞き流して私は取りあへずそこの店さきにある井戸傍に立つた。頭から背から足さきまで洗ひ流して、直ぐ二階に上らうとした。また内儀が何か言ふ。あまりに頬の肉が豊富で口はその奥に引込んで而かも歯が欠けてゐるため、何をいふのか甚だ解し難い。下座敷がよくはないかといふ様なことではあつたが、私はずん/\階子段を上つてしまつた。そして海に向いた方の部屋の障子を引きあけてみて驚いた。其処はふさ[#「ふさ」に傍点]がつてゐた。しかも三十前の男女が恐しい風をしてまだ蚊帳の中に寝てゐる。
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