惶《あわ》てゝ其処を閉めたが、サテ他にはその反対側に今一つきり部屋がない。てれ隠しに恐々《こは/″\》それをも窺いてみると三畳位ゐで、而かも日が真正面《まとも》に当つてゐる。
 すご/\下に降りると内儀は笑ひながら奥の間(と云つてもこれより外に座敷らしい処はない)の縁側に近い所へ座布団を直した。兎もあれ麦酒を一二本冷やして呉れといふと、そんなものは無いといふ。いよ/\なさけ無くなつたが、それでも酒はと押し返すと、どの位ゐ飲むかと訊く。何しろ大変なものであらうが、兎に角少しでもやつて見ようと決心して、二合ばかりつけて呉れ、それに缶詰でも何でもいゝから直ぐ飯を食はしてくれと頼むと、缶詰もないと呟く。そして小さな燗徳利を持つて戸外《そと》へ出てゆく。オヤ/\二合だけ買ひに行くのと見える。
 裸体になつて柱に凭《よ》つてゐると、流石に冷たい風が吹く。日のかん/\照つてゐる庭さきには子供が三人長い竿で蜻蛉を釣つてゐる。赤い小さいのが幾つも幾つもあちこちと空を飛んでゐるのだ。二階で起き上つた気勢《けはひ》がして何やら言ひ争つて居る。その声の調子から二人とも芸人だなと直ぐ気づかれた。降りて来た男を見ると髪が長い、浪花節だなとまた思ふ。女の方はずつと若く、綺麗な荒《すさ》んだ顔をしてゐた。
 むく/\動いて内儀さんが帰つて来た。そしてまた蜻蛉釣の子供を呼んで何やらむぐ/\言ひつけてゐる。やがて物を焼く匂ひがする。はゝア壷焼きだなと感づいた頃はもう好し悪しなしに燗のつくのが待ち遠かつた。
 案じてゐた程でもないと思ふと、直ぐまたあとを酒屋に取りにやつた。少しづつ酔の廻るにつけて、何となく四辺《あたり》が興味深く思ひなされて来た。矢張り初めの思ひ立ち通り此処に一晩泊つて帰らうか。それともこのまゝ一睡りして夕方かけて先刻《さつき》の路を歩かうか、浪花節語りと合宿も面白いかも知れぬ、肥つちよの内儀さんも面白さうだ、などと考えてゐると次第に静かな気持になつて来た。柱に凭《もた》れたまゝ斜めに仰ぐ空には高々と小さな雲が浮んで、庭さきの何やらの常磐樹の光も冷たく、自身をのみ取り巻いてゐるやうな単調な浪の音にも急に心づき、秋だ/\と思ふ心は酒と共に次第に深く全身を巡り始めた。またしても有明月の一首をどうかしてものにしたいと空しく心を費す。
 二度目の酒も終つた。飯も済んだ。泊らうか帰らうかの考へはまだ纏らぬ。其うち二階ではまた何か言ひ合ひ始めた。壊れた喇叭の様な男の声に混つてゐる女の声はまるでブリキを磨り合せてゐるやうだ。それにしてもなか/\いゝ女だ、久しぶりにあゝした女を見た、などとまたあらぬ事を考へ始める。
 うと/\してゐると、突然ぼう――つといふ汽船の笛が直ぐ耳もとに落ちて来た。
 三崎行だな、と思つた時には既に半分私は立ち上つてゐた。
『おばさん、勘定々々、大急ぎだ。』
『…………?』
『三崎だ/\、大急ぎ!』
 駆けつけた時は丁度砂から艀を降す所であつた。身軽に飛び乗るとする/\と波の上に浮び出た。小さな、黒い汽船はやゝ離れた沖合に停つてまだ汽笛を鳴らしてゐる。房州の端《はな》が眼近に見え、右手は寧ろ黒々とした遠く展けた外洋である。せつせ[#「せつせ」に傍点]と押し進む艀の両側には、鰹《かつを》からでも追はれて来てゐたか、波の表が薄黒く見ゆる位ゐまでに集つた※[#「魚+是」、第4水準2−93−60]《しこ》の群がばら/\/\と跳ね上がつた。



底本:「日本の名随筆92 岬」作品社
   1990(平成2)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「若山牧水全集 第五巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年5月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:渡邉つよし
校正:門田裕志
2002年11月12日作成
2004年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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