て彼は何やら爲しつゝある所であつた。
下りつけば其處は幾つかの小山の裾の落ち合つた樣なところで、狹い澤となつてゐた。片寄りに一すぢの溪が流れ、あちらの山こちらの山の根がたにすべてゞ十二三軒もあらうかと思はるゝ藁家が見えた。それらの家に圍まれた樣な澤はみな麥の畑で、黄いろくも黒くも見ゆるそれをせつせといま刈つてゐた。黄柳野村《つげのむら》といふのであつた。
村に一本の路を急いで居るとツイ路ばたにすつかり戸障子をあけ放した一軒の家があつた。そして部屋の中にも軒端にもいつぱいに眼白籠が懸けてあり、とり/″\に囀《さへづ》り交してゐた。部屋の中には酌婦あがりとも見らるる色の黒い三十年増が一人坐つて針をとつてゐた。友人と私とは相顧みて、微笑した。
狹い村を通り終れば路はまた登りとなつた。吉川峠といふ。
山は陣座峠より淺かつた。そして雜木の茂つた灌木林の中に澤山の黄楊《つげ》が見かけられた。犬黄楊らしかつたが、殆んどその木ばかりの茂つた所もあつた。さつき通つた村の名もこれから出たのだと思はれた。陣座峠でも見かけたが、私には珍しい山百合があちこちと咲いてゐた。莖は極めて細く、花もしなやかで、色がうすもゝ色であつた。普通の、白い百合も稀に咲いてゐた。
勞れて來たせゐか、今度の下《くだ》りは長かつた。自づと話がはずんだが、元氣のいゝ話ではなかつた。自分の爲事の不平、朝夕の暮しの愚痴、健康の不安、中にもこの友が自分の子供に對する心配などは身にしみて聞かれた。
やがて、麥刈り、田鋤き、桑摘みの忙しさうな村に出た。埃の立つ道を急ぐともなく急いで、漸く豐川の岸に出た。偶然にも道はこの前同じく新城《しんしろ》の友を訪ねて來た時散歩に出て渡つた辨天橋の上に出た。高い橋、深い淵、淵の尻の眞白な瀬、私たちは暫く橋の上に坐つて帽子をぬいだ。
ともするとその枕許に坐つて話をする事になりはせぬかと氣遣つて來た新城町の友K――君は幸にも起きてゐた。而かも私の訪問がだしぬけであつたので、呆氣《あつけ》にとられながら小躍りして喜んだ。然し、いつもながら聲はろくに出なかつた。結核性の咽喉の病氣にかゝつて六七年も私の沼津に來て養生してゐたのだが、この數ケ月前、其處を引上げて郷里に歸つてゐたのである。その姉も、その父も、友に劣らずこの突然の訪問を喜んだ。姉も、父も、この病人のために全てを犧牲にしてゐると謂つた樣な境遇に在る人たちなのである。
突然ではあり、時間ではあり、ことに初めての氣賀町の客人のために町の料理屋に出て夕飯をとらうといふ事になつた。それを聞くとY――君は驚いて、イヽエ私は歸りますといふ。これからどうして歸れます、それに折角の事だから、と家の人たちも總がかりで留めたが、一日はまだしも二日とはどうも學校が休めない、と言つて立ち上つた。なアに四五里の道だし自轉車ならわけはありません、と私の顏を見て笑ひながら言つた。私にはいま漸く彼があの乘れもしない山坂路を一生懸命になつて自轉車を押して來たわけが解つた。歸りは無論その山坂路でなく、他にいゝ道路があるのださうである。そしてその車のベルを鳴らしながら、たけ高いうしろ姿を見せて彼は歸つて行つた。夏のことだで、まだざつと二時間は明るいが、樂ではないぞなど此處の老父はそれを見送りながら言つた。
然し、夕飯には町へ出る事になつた。たつて止めたが早や立ち上つたこの友の、兩手を振りながら出もしない聲を絞つて、先生、後生ですから私のためにだし[#「だし」に傍点]になつて下さい、私だつてたまには明るい所へ出て行きたいですよ、といふのを聞くと、矢張りいなめなかつた。その父と姉と友と私と、わざと町裏の田圃路を通つてこの前來た時も行つた事のある遠い料理屋へ出かけて行つた。新城町は桑畑の中に在り、兵兒帶の樣な長いながい一筋町である。
杯をなめながら、席に出た藝者たちから私は意外な事を聞いた。鳳來寺山の佛法僧聽きが近來急に流行り出し、なほその宣傳のため土地の有志に招かれてわたしたち一組は昨夜出かけ、殘る一組は今夜鳳來寺に佛法僧聞きに行つてゐる、といふのだ。呆れながら、お前たちがあの鳥を聞いて何にするのだ、と言へば、いゝえ、お客樣ごとにその事を吹聽《ふいちやう》して勸めるのですよ、といふ。その代り佛法僧は近來頻りに啼くのださうだ。この前、私の聽きに來た時は山の上の寺に九晩《ここのばん》泊つて辛うじて二晩だけ聽き得たのであつた。今は行きさへすれば毎晩聞けるといふ。聲を絞つて友人は言つた、佛法僧もえらく商賣氣を出したもんですネ、と。
『それも先生のおかげサ。』
早や醉つて顏は眞赤に、豐かな頬鬚のつや/\と白い老父は笑つた。この前來た時、私は『鳳來寺紀行』にこの鳥の事を書いて雜誌『改造』に出した。それが今まで殆んど無關心であつたこの附
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