近の人たちに意外な反響を喚んだのださうだ。現に主要な停車場には佛法僧の繪をかいたポスターが張られ、私の文章の中の文句が大きな字で引かれてあるといふ。
六月二十三日。
私の居る事はこの友人の身體によくない樣に思ひながら晝過ぎまでも愚圖々々してゐた。その間、私の膝の側には朝からずつと盃と徳利とが置いてあつたのである。豐川の鮎の蓼酢《たです》など、近來になくうまいものであつた。
昨夜の藝者の話で鳳來寺行きはかなり興が醒めたが、然し毎晩啼くといふ佛法僧を樂しみに矢張り出かくる事にした。電氣に變つた豐川鐵道で長篠驛下車、驚くべし其處には鳳來寺行乘合自動車が出來てゐた。沿うて走る寒狹川の岸の岩には、昨日名も無い溪で見て來たと同じく岩躑躅が咲きこぼれてゐた。
直ぐ鳳來寺の山に登り、寺に一二泊を頼まうかと思ふたが、今では其處にも毎晩十人位ゐの泊客があると聞いたので遠慮され、とりあへず麓の宿屋に一泊することにした。この宿屋もこの前の紀行には『これも廣重の繪などに見るべき造りの家である』と書いてある通り、曾木板葺《そぎいたぶ》きの古び果てた宿であつたが今は一枚ガラスの大戸を玄關に立てた立派な宿館に新築されてあつた。通された二階はまだ荒壁のまゝで、唐紙もろくに入れてなかつた。やう/\疊だけは入れました、と宿の者は言つた。
一ぷく吸つたまゝ私は宿から二三軒先の硯造りの家に出かけて二三の硯を買つた。この山から出る鳳鳴石といふのでその質のいゝ事をばかねて聞いてゐながらこの前は荷になるのを恐れて買はなかつた。今度は自動車電車だから大丈夫である。
恐れてゐた相合客《あひあひきやく》は夜に入るまで來なかつた。不思議なことです、と宿の主婦は呟いたが、私はほつかりした。取り寄せた晩酌の酒のさまでゝないのも嬉しかつた。此處にも豐川の鮎が入つてゐた。
窓から見る宿の前の溪端に一つ二つと飛ぶ螢が見えだした。それまでに山の方で啼いてゐたいろいろの鳥の聲も靜まつた。軒を仰ぐと、曇つてゐるが月明りのある空である。その空を限つて嶮しく聳え立つた鳳來寺山の山《やま》の端《は》は次第に墨色深く見えて來た。
其處へ、心おぼえの啼聲が聞えて來た。まさしくあの鳥である。佛法僧の聲である。月を負うた山の闇から、闇の底から落ちて來る、とらへどころのない深い/\聲である。聽き入れば聽き入るだけ魂の誘はれてゆく聲である。玉をまろがすと言つては明るきに過ぎ、帛《きぬ》を裂くと言つては鋭きに過ぐる。無論、佛《ブツ》、法《ポウ》、僧《ソウ》などの乾いた音色《ねいろ》ではゆめさら無く、郭公、筒鳥の寂びた聲に較べては更に數段の強みがあり、つやがある。眼前に見る大きな山全體のたましひのさまよひ歩く聲だとも言ひたいほど、何とも形容する事の出來ない聲である。
『ア、啼く、啼く、……』
私はいつか窓際にすり出て、兩手を耳にあて、息を引きながら聽き入つた。相變らず所を移して啼く。一聲二聲啼いては所を變へる。暫くも同じところに留らない。ともすれば、山そのものが動いてゐるかとも聞きなさるることすらある。
私は膳を窓側の縁に移した。一杯飮んでは耳に手をあて、一杯飮んでは眼を瞑《つむ》つた。二三本も飮んだが、一向に醉はない。
『よう啼きますやろ。』
宿のお婆さんが笑ひながらお銚子を持つて來た。流石に私もきまりが惡くなり、それを濟ますと床についた。
この鳥の啼聲を文字に移し得ざる事を憾む。内田清之助博士著『鳥の研究』の中に「高野山中學校教諭榎本氏が幾年かに渉つて聞かれた所によれば次の如くである。」として、
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この鳥の啼く聲はギヨブツコー、ギヨブツコー、或はグブツクオーと聽えるものを凡そ一秒弱の間を※[#「※」は「插」のつくりの縦棒が下に突き抜けている、210−13]んで繰返し、時々はギヨブツクオー、コー、或はギヨブツ、ギヨブツ、クオーを加へる。ギヨブツクオー、コー、の場合には第二音クオーと第三音コーとの間に、第一音と第二音との間よりも、少し長い間を置き、且つ第三音コーは第二音よりも調子低く、またギヨブツ、ギヨブツ、クオーの場合には各間隙に長短はなく、殆んど三音を連唱する。下略。
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云々と書いてある。流石によく調べてある。強ひて書けば先づ斯うであらう。が、本物《ほんもの》とこれとの差は雀と佛法僧との差に相等しい。
枕許の水を飮むために眼を覺す。
啼いてゐる。
夜の更けたゝめか、或は麓近く移つて來たか、宵の口より一層澄んで聞える。
起きて窓に凭ると、月も曇を拭つて照つてゐた。山の森の茂みにも月の光があつた。そして、宵の口は多く右の、ギヨブツコー、ギヨブツコー、の二聲づつを啼いたに夜の更けてからは、ギヨブツ、ギヨブツ、コーの三聲を續ける啼きかたをしてゐ
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