梅雨紀行
若山牧水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)纜《ともづな》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)聲は愈々|尖《とが》つた。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「巾へん+「冖+二+目を上から順に並べたもの」、読みは「ぼう」、195−6]子を脱いだ。
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)足らん/\、
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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發動機船は棧橋を離れやうとし、若い船員は纜《ともづな》を解いてゐた。惶てゝ切符を買つて棧橋へ駈け出すところを私は呼びとめられた。いま休んでゐた待合室内の茶店の婆さんが、膳の端に私の置いて來た銀貨を掌にしながら、勘定が足らぬといふ。足らぬ筈はない、四五十錢ばかり茶代の積りに餘分に置いて來た。
『そんな筈はない、よく數へてごらん。』
振返つて私はいつた。
『足らん/\、なアこれ……』
其處を掃除してゐた爺さんをも呼んで、酒が幾らで肴が幾らでこの錢はこれ/″\で、と勘定を始めた。私はそれを捨てゝおいて船へ乘らうとした。
爺さんと婆さんは追つかけて來た。切符賣場からも男が出て來た。船の窓からも二三の顏が出た。止むなく私は立ち留つた。そして婆さんの掌の上の四五枚の銀貨を數へた。どうも足らぬ筈はない。
『これでいゝぢやアないか、四十錢ばかり多いよ。』
『馬鹿なことを……』
婆さんの聲は愈々|尖《とが》つた。そして、酒が幾らで、肴が幾らで、と指を折り始めた。私もそれを數へてみた。そして、オヤ/\と思ひながら一二度數へ直して見ると、矢つ張り私の間違ひであつた。茶代拔きにして丁度五十錢ほど足りなかつた。私は帽子を脱いだ。そして五十錢銀貨二枚を婆さんの掌に載せた。載せながら婆さんの眼の心底《しんそこ》から險《けは》しくなつてゐるのに驚いた。汗がぐつしより私の身體に湧いた。
船は思ひのほかに搖れながら走つた。船内の腰掛には十人ほどの男女が掛けてゐた。
『間違ひといふものはあるもんで……』
私の前に掛けてゐた双肌ぬぎの爺さんは私に言つた。この爺さんは茶店で私が酒を飮んでゐる時から二三度私に聲をかけてゐた。
『イヤ、どうも、……』
私は改めて額の汗を拭いた。
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