比叡山
若山牧水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)黄昏《たそがれ》近かつた。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一向|埓《らち》があかず
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すと
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\ゆつくり
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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山上の宿院に着いた時はもう黄昏《たそがれ》近かつた。御堂の方へ參詣してからとも思うたが、何しろ私は疲れてゐた。「天台宗講中宿泊所」「一般參詣者宿泊所」といふ風の大きな木の札の懸つてゐるその冠木門を見ると、もう脚が動かなかつた。
門を入るとツイ眼の前に白い花がこんもりと咲き枝垂れてゐた。見るともなく見れば、思ひもかけぬ幾本かの櫻の花である。五月の十八日だといふに、と思ふと、急に山の深いところに來てゐるのを感じた。飛石を傳つて、苔の青い庭を玄關まで行つたが、大きな建物には殆んど人の氣も無く、二三度訪うても返事は聞かれなかつた。途方に暮れてぼんやりと佇んでゐると、何やら鳥の啼くのが聞える。靜かな、寂しいその聲は曾つて何處かで聞いたことのある鳥である。しばらく耳を澄ましてゐるうちに筒鳥といふ鳥であることを思ひ出した。思ひがけぬ友だちにでも出會つた樣に、急に私の胸はときめいて來た。そして四邊《あたり》を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すと何處もみな鬱蒼たる杉の林で、その夕闇のなかからこの筒拔けた樣な寂しい聲は次から次と相次いで聞えて來てゐるのである。
坂なりに建てられたこの宿院のずつと下の方に煙の上つてゐるのを見た。どうやら人の居る氣勢《けはひ》もする。私は玄關を離れてそちらへ急いだ。あけ放たれた入口の敷居を跨ぐと、中は廣大な土間で、老婆が一人、竈の前で眞赤な火を焚いてゐる。私はいきなり聲をかけてその老婆の側に寄りながら、五六日厄介になりたいがと言ひ込んだ。驚いた老婆はさも胡亂《うろん》臭さうに私を見詰めてゐたが、此頃こちらでは一泊以上の滯在はお斷りすることになつてゐるからといふ素氣《そつけ》もない挨拶である。
私は撲たれた樣に驚いた。そして一寸には二の句がつげなかつた。初めこの比叡山に登つて來たのは參詣のためでなく、見物でもなく、或る急ぎの仕事を背負つて來たのであつた。自分のやつてゐる歌の雜誌の編輯を今月は旅さきで濟ませねばならぬ事になり、東京から送つて來たその原稿全部をば三四日前既に京都で受取つてゐたのである。そして急いで京都でそれを片附けるつもりであつたが、久しぶりに行つた其處では同志の往來が繁くて、なか/\ゆつくりそんな事に向つてゐるひまが無かつた。印刷所に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]さねばならぬ日限は次第に迫つて來るし、困つた果てに思ひついたのはこの山の上であつた。それは可からう、其處には宿院といふのがあつて行けば誰でも泊めて呉れるし、幾日でも滯在は隨意だし、と幾度びか其處に行つた經驗のある或る友人も私のその計畫に贊成して呉れたので早速私は重い原稿を提げて登つて來たのであつた。京都から大津へ、大津から汽船で琵琶湖を横切つて坂本へ、坂本から案外に嶮しい坂に驚きながらも久しぶりにさうした山の中に寢起きする事を樂しみながら、漸く斯うして辿り着いて來たのである。
さうして斯ういふ思ひもかけぬ返事を聞いたので、私はまつたくぼんやりしてしまつた。そして尚ほ押し返へして二三度頼んでみた。老婆の態度はます/\冷たくて、まご/\すればそのまま追ひ出しも兼ねまじき風である。終に私も諦めた。では一晩だけ泊めて下さいと言ひ棄てながら下駄を脱いだ。長くはさうして立つてゐられぬ位ゐ、私の脚は痛んでゐた。
通された部屋はもう薄暗かつた。投げ出された樣に其處に突き坐つてゐると、廣い屋内の何處からか微かな讀經の聲が聞ゆる。聞くともなく耳を傾けてゐるとまた例の鳥の啼くのが聞えて來た。山鳩の啼くよりは大きく、梟よりは更に寂び、初めもなく終りもないその聲に耳を澄ましてゐると、もう先程の疳癪も失望もいつか知ら消え失せて、胸はたゞ言ひ樣のないさびしさものなつかしさで一杯になつて來る。私は立ち上つて窓をあけた。少しの庭を距てて、眼の及ぶ限り一面の杉である。戸外はまだ明るかつた。ぼんやりと其處らを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐると、ふと大きな杉の間に遠く輝いてゐるものを見出した。琵琶湖だナ、と直ぐ思ひついた。
讀經は何時か終つたが、筒鳥は尚ほ頻りに啼く。それに混つて何だか名も知らぬ小鳥らしいのの啼くのも聞えて居る。窓に倚りかゝりながら、私はいよ/\耐へ難いさびしさを覺えて來た。そして、端なく京都の友人の言つてゐた言葉を思ひ出して、そそくさと部屋を出た。
案の如くその宿院から石段を一つ登れば一軒の茶店があつた。其處で私は二合入の酒壜を求めながら急いで部屋へ歸つて來た。出來るなら飯の時に飮み度いが、今通りすがりに見れば食堂といふ札の懸つてゐる大きな部屋があつた。飯は多分其處で大勢と一緒に喰べなくてはなるまいし、ことに寺院附屬のこの宿院で公然と酒を飮むのも惡からうと、壜のまま口をつけやうとしてゐるところへ、薄暗い窓のそとからひよつこり顏を出した者がある。十四五歳かと思はれる小柄の小僧である。
「酒買うて來て上げやうか。」
「酒……? 飮んでもいいのかい?」
「此處で飮めば解りアせんがナ。」
「さうか、では買つて來て呉れ、二合壜一本幾らだい?」
「三十三錢。」
それを聞きながらこの小僧奴一錢だけごまかすな、と思つた。たつた今三十二錢で買つて來たばかりなのだ。
「さうか、それ三十三錢、それからこれをお前に上げるよ。」
と、言ひながら白銅一つを投り出してやつた。
犬の樣に闇のなかに飛んで行つたが、直ぐまた裏庭から歸つて來て窓ごしにその壜をさし出した。
「燗をして來てあげやうか。」
「いや、これで結構だ。」
彼はそのまま窓に手をかけて立つてゐたが、
「酒好きさうな人やと思うてゐた。」
と言ひながら行つてしまうた。
苦笑しい/\私は手早くその冷たいのを一口飮み下した。二口三口と續けて行くうちに、次第に人心地がついて來た。窓の前の庭も今は全く暗く、遠くの峰に幾らか明るみが殘つてゐるが、麓の湖はもう見えない。筒鳥の聲もいまは斷えた。部屋はまだ闇のままである。なるやうになれ、と投げ出した心の前には却つてこの闇も親しい樣に思ひなされてゐたが、やがて廊下に足音が聞えて薄赤い洋燈を持つて入つて來た。先刻《さつき》の小僧である。思つたより更に小柄で、實に險しい顏をして居る。
翌朝は深い曇りであつた。窓もあけられぬ位ゐ霧がこめて、庭に出てみると雨だか木の雫だか頻りに冷たく顏に當る。
未練が出て今一度老婆に滯在のことを頼んでみたが生返事で一向|埓《らち》があかず、幾らか包んでやれば必ず效能があつたのだと、あとで合點が行つたが最初氣がつかなかつた。ことに朝飯の知らせに來た例の小僧が、滯在は出來ぬが今日山を下るのなら早う來て飯を食ひなされ、と言つたのに業《ごふ》を煮やし、早速引き上げることに決心して、早速其處を飛び出した。そして、一應山内の重なところだけでも見て來ようと獨りぶらぶらと山みちを歩き出した。まだ朝が早いので一山の本堂とも云ふべき根本《こんぽん》中堂といふ大きな御堂の扉もあいて居らず、行き逢ふ人もなく、心細く細かな徑を歩いて居ると次第に烈しく杉の梢から雫が落ちて來る。種々の期待に裏切らるる事に此頃では私も馴れて來た。あれほど樂しんで來たこの山も、斯んな有樣で早々引き上げねばならぬのかと思ふと實に馬鹿々々しくてならぬのだが、その下からまた直ぐ次の計畫を考へるだけの餘裕も出來てゐた。今日この山を降りて、何處か湖畔の靜かなところを探し、其處で例の仕事を片附けようと思ひついてゐたのである。
何とも言へぬ深い感じのする山である。その日は四方を霧が罩《こ》めてゐたせゐか、特にその樣に思はれた。木立の梢には折々風が立つらしく、急にばら/\と大きい雫が散亂して、見上ぐれば眞白な雲か霧か颯々と走り續いてゐる。梢ばかりでなく、歩いてゐる身近にも茂つた青い木や草が頻りに搖れ靡いて、立ち止つて眺めて居れば何だか恐ろしい樣な思ひも湧く。
根本中堂から十三丁とかある樣に道標に記された淨土院を訪はうと私は歩いてゐた。淨土院は當山の開祖傳教大師の遺骨を納めた寺で、この大正十年が同大師の一千一百年忌に當るのだ相だ。一時は三千坊とか稱へて山内全部に寺院が建ち並んでゐた相だが、今では寺の數三十ほど、そのうち人の住んでゐるのは僅か十六七だらうといふことである。山の廣さ五里四方と云ひ、到る處杉檜が空を掩うて茂つてゐる。ちやうど通りかかつた徑が峠みた樣になつてゐる處に一軒の小さな茶店があつた。動きやまぬ霧はその古びた軒にも流れてゐて、覗いてみれば小屋の中で一人の老爺が頻りと火を焚いてゐる。その赤い色がいかにも可懷《なつか》しく、ふら/\と私は立ち寄つた。思ひがけぬ時刻の客に老爺は驚いて小屋から出て來た。髮も頬鬚も殆んど白くなつた頑丈な大男で、一口二口話し合つてゐるうちにいかにも人のいい老爺である事を私は感じた。そして言ふともなく昨夜からの愚痴を言つて、何處か爺さんの知つてゐる寺で、五六日泊めて呉れる樣なところはあるまいかと訊いてみた。暫く考へてゐたが、あります、一つ行つて聞いて見ませう、だが今起きたばかりで、それに御覽の通り私一人しかゐないのでこれから直ぐ出かけるといふわけに行かぬ、追つ附け娘たちが麓から登つて來るから、そしたら早速行つて聞合せませう、まア旦那はそれまで其處らに御參詣をなさつてゐたらいいだらうといふ思ひもかけぬ深切な話である。私は喜んだ。それが出來たらどんなに仕合せだか解らない、是非一つ骨折つて呉れる樣にと頼み込んで、サテ改めて小屋の中を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すと駄菓子に夏蜜柑煙草などが一通り店さきに並べてあつて、奧には土間の側に二疊か三疊くらゐの疊が敷いてあるばかりだ。お爺さんはいつも一人きり此處に居るのかと訊くと、夜は年中一人だが、晝になると女房と娘とが麓から登つて來るのだといひながら、ほんの隱居仕事に斯んな事をしてゐるが、馴れてしまへば結局この方が氣樂でいいと笑つてゐる。
小屋の背後は直ぐ深い大きな溪で、いつの間にか此處らに薄らいだ霧は、その溪一杯に密雲となつて眞白に流れ込んでゐる。空にも幾らか青いところが見えて來た。では一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來るから、何卒お頼みすると言ひ置いて私は茶店を出た。雀一羽降りてゐぬ、靜かな淨土院の庭には泉水に水が吹き上げて、その側に石楠木《しやくなぎ》が美しく咲いてゐた。其處を出て釋迦堂、五輪塔と五町三町おきに何か由緒のあるらしい寺から寺をぶら/\と訪ね※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて茶店に歸つて來たが、中學生らしい大勢の客のみで、まだその娘たちは來てゐなかつた。それから私は更にこの比叡の絶頂である四明嶽に登つて行つた。その昔平將門が此處に登つて京都を下瞰しながら例の大野望を懷《いだ》いたと稱せらるる處で、まことに四空蒼茫、丹波路から江州その他へ延びて行つた山脈が限りもなく曇つた空の下に浪を打つて續いて居る。風が寒くて、とても高い處には立つて居られない。少し頂上から降りて、風にねぢけたばら/\の松原に久しい間私は寢ころんでゐた。一羽の鶯が其處らに巣でもあると見えて、遠くへは暫しも行かず、松の葉かげに斷えず囀り續けてゐた。
其處を降りて再び茶店に歸つて行くと私の顏を見た爺さんは、いま娘が來たので早速寺へ問合せにやつた、多分大丈夫と思ふが、兎に角暫く待つてゐて呉れといふ。幸ひ二三本酒壜
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