の並んでゐるのを見たので、それを取つて冷《ひや》のままちび/\飮んでゐると、二十《はたち》歳位ゐの色の小黒い、愛くるしい顏をした娘が下の溪から上つて來た。それと二三語何か話し合ふと老爺は直ぐ齒の無い顏に一杯に笑みを含んで私の方に振向いた。私もそれを見て思はず知らず笑ひ出した。
 話は都合よく運んだのであつた。が、何しろその寺はこの山の中でも一番荒れた寺で、住職もあるにはあるのだが平常は其處にゐず、麓の寺とかけもちで何か事のある時のほかはこちらへは登つて來ない、ただ一人の寺男の爺さんがゐるばかりで、お宿をすると云つてもその寺男の喰べるものを一緒に喰べて貰はなくてはならぬがそれで我慢が出來るか、とまた心配相に爺さんは私に問ひかけた。却つてその方が私も望むところだ、何しろ望みが叶つて嬉しい、お爺さんも一杯やらないか、と冷酒の茶椀をさすと、いかにも嬉しさうに寄つて來て受取つて押し頂く。お爺さんも好きらしいネ、と笑へば、これが樂しみでこそこんな山の中にもをられるのだといふ。幸ひ客も無かつたので二人してちびちびと飮み始めた。その途中にふつと氣のついた樣に、若しこれから旦那がその寺でお酒をお上りになる樣だつたら一杯でいゝから寺男の爺に振舞つて呉れ、これはまた私以上の好きで、もとはこの麓で立派な身代だつたのだがみなそれを飮んでしまひ、今では女房も子供も何一つない身となつてその山寺に這入つてゐる程の男だから、としみ/″\した調子で爺さんが言ひ出した。宜しいとも、私も毎日これが無くては過せない男だが、それでは丁度いい相棒が出來て結構だなどと話し合つてゐるところへ、溪の方から頭を丸く剃つた、眼や口のあたりに何處か拔けた處のある、大きな老爺がのそ/\と登つて來た。ア、來た/\と云ひながら茶店の老爺は立ち上つて待ち受けながら、今度はまた世話になるな、といふと、何も出來ぬが客人が困つてなさる相だから、と言ひ/\側にやつて來た。私も立ち上つて禮をいふと、向うはただ默つて眼をぱち/\させながら頭を下げてゐる。それを見ると娘はさも/\可笑しいといふ樣に、顏を掩うて笑ひ出した。茶店の爺さんも笑ひながら、旦那、この爺さんはまことに耳が遠いのでそんな聲ではなか/\通じないといふ。自分の聲は人並外れて高調子なのだが、これで聞えないとすれば全然|聾《つんぼ》同然だ、この爺さんとその荒寺に五六日を過すことか、と私も今更ながら改めて眼の前にぼんやり立つてゐる大きな、皺だらけの人を見守らざるを得なかつた。
 やがてその爺さんに案内せられて私は溪の方へ降りて行つた。今までの處より杉はいよ/\古く、徑は段々細くなつた。そして、なか/\遠い。隨分遠いのだなといふと、なアに今の茶店から七町しか無いといふ。近所に他にお寺でもあるのかと聞くと、釋迦堂が一番近いが其處には人がゐないのだから先づ一軒だちの樣なものだといふ。
 なるほど四方を深い木立に距てられた一軒だちの寺であつた。外見は如何にも壯大な堂宇だが、中に入つて見るとその荒れてゐるのが著しく眼に付く。この部屋を兎に角掃除しておいたから、と言はれて或る部屋に入つて行くと疊はじめ/\と足に觸れて、眞中の圍爐裡《ゐろり》には火が山の樣に熾《おこ》つて居た。ぼんやりと坐つてゐると、何やらはら/\と烈しく聞えて來た。縁側に出てみると、いつの間にかまた眞白に霧が罩めて大粒の雨が降り出してゐた。



底本:「若山牧水全集 第五卷」雄鷄社
   1958(昭和33)年8月30日発行
入力:kamille
校正:小林繁雄
2004年7月13日作成
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